https://d1021.hatenadiary.com
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Kuni Sakamoto

オシテオサレテとはなんだったのか。 「メモを取っても記憶は定着しない:研究結果」 http://wired.jp/2015/01/17/taking-notes-is-no-good/

Kuni Sakamoto

ただメモは自分の理解を深めるためと、あとから見かえすためにとるのであって、記憶するためにとるのではないんです。記憶は土台不可能ですから。ま、負け惜しみじゃないですから!

メモは書いて忘れて、あとから心置きなく参照するために取るものだと思ってました...

覚えるためのメモという発想はある意味逆転の発想ですよね…

Kuni Sakamoto

重要論考の主張の核の部分を、自分の言葉で表現できるようにストックしておかないかぎり、従来の知見を立体的に組みあげて、そこに自分の主張をはめこむことはできないと思う。凡人には。

山下太郎

「山の学校の取り組み――文字を使った学習を大事にするために――」 http://www.kitashirakawa.jp/yama-no-gakko/?p=1903

「山の学校の取り組み――文字を使った学習を大事にするために――」 | 京都 山の学校|新しい学びの場

カエサル(シーザー)の残した『ガリア戦記』によると、ガリアの支配階級ドルイド僧は教育を行うにあたり文字を使わず、弟子には口伝えで教義を伝え、文字に記録することを許しませんでした。「学ぶ者が文字に頼って暗記に精を出さなくなるため」とカエサルは説明しています。

逆に、熱心な学習者であれば、今述べた文字の利点を最大限に生かし、「いつでも、どこでも、何度でも」教科書を開き、最大の学習成果をあげるでしょう。要は、文字とのつきあいかたが問われているのです。私見を述べれば、文字のある学習を大事にするコツは、文字を使わない学習を大事にすることです。


このことを考える上で、日本の伝統的教育にヒントがあります。ズバリ、素読です。

素読とはいわば、文字の断食です。食を断つことで逆に食べる力が整えられるわけです。

次に注目したいのが、ヨーロッパの伝統的教育としての「対話」です。「文字を使わない学習」というとピンときませんが、人と人が目を見て行う「対話」は、古代ギリシャ以来大切にされてきた学びの方法です。あることについて知っているかどうかは他人に説明してみればわかります。


言葉に詰まったり、(知識のあやふやさから)話しにくさを感じなら、再度勉強しなおして知識を補充します(その際文字を使った勉強に意味が出てくる)。

山下太郎

楽しく学べ──Disce Libens. http://www.kitashirakawa.jp/yama-no-gakko/?p=1808

楽しく学ぶ、山の学校。 | 京都 山の学校|新しい学びの場

ローマの政治家小プリーニウスは手紙の中で、「多読より精読が大切だと言われている」という意見を紹介している。


小プリーニウスは伯父の大プリーニウス(博物学者)を尊敬していた。知人にその読書法を尋ねられて、「彼は本を読むときは必ず抜書きをした。何に役にも立たないほどダメな本は一冊もないから、というのが口癖だった」と答えている。抜書きは、今でも通用する精読の王道だ。

一方、ローマの哲人セネカは旅を例に取り、あちこち旅を続ける人間は、各地に知人はできるが真の友人はできない、読書もあれこれ読み散らかすのではなく、少数の本と深い信頼関係を結ぶべきである、と述べている。これまた精読の勧めである。


セネカにとってじっくり付き合うことのできる本とは、すばり、古典と呼ばれる作品のことであった。そこではソクラテスと語り合うこともできる、と言っている。並み居る賢者たちはいつでも面会に応じてくれるばかりか、手ぶらで返すことはない、とも。

山下太郎

本当の勉強──Age quod agis. http://www.kitashirakawa.jp/yama-no-gakko/?p=1547

本当の勉強──Age quod agis. | 京都 山の学校|新しい学びの場

好きなことをとことんやる。そこから何か別の道が開けてくる。好きなこととの出会い、自分の生きる道との遭遇。日本語ではこういったこともすべて含めて「ご縁」と呼ぶ。表題のラテン語は、「できることをせよ」というのが直訳だが、授かった「ご縁」を大事にして目の前のことに全力を尽くせ、という意味で解釈したい。

「できる」の意味を考えれば、自分は何に全力を尽くすべきか、心の深いところで自問自答が繰り返される。答えは容易に出ない。であれば、自分が「これは」と思えるもの、「好きなこと」を手がかりにして、そこから進んでいけばよいのではないか。

本来、誰の中にも本物の輝きがある。だが、磨かなければ表に出ない。自分にもそれが何か見えないままである。大人になるにつれ、努力を忌避し失敗を恐れる心が育つ。一方、「できる」ことへの感謝を忘れず「好きなこと」に磨きをかける限り、その取り組みは必ず人々の絆の中で生かされる。ひいては社会に、そして自分に輝きを与えるものとなる。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150121#1421836823
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150120#1421750067
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150115#1421318219
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150115#1421318244
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150105#1420454781
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150103#1420281574
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141230#1419935860
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131015#1381834902
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130604#1370352074