ラテン語は極めるものでなくかじるもの。マスターするものでなくインタレストをもつべきもの。かじらぬ者がほとんどゆえ、インタレストをもつだけでアドバンテージあり。
インタレストはインテル・エスト。対象と自分との間に「何かがある」。本棚に一冊本があるだけでもインテル・エストなのだろうな。みな成果をあせりすぎ。それですぐにあきらめる。
大学で教えていたときはとにかく授業に出るようにと言った。寝ていてもよい、予習しなくてよい。最後まで残れ、続けよ、と言った。校門ですれ違った学生にそう説得して授業に出させた。いつぞやは古典学会で発表したな、あの彼は。また、今は大学の先生をしているな、あの彼は。
もう一段、二段上の人たちは知らぬが、私にとってラテン語はいつまでもぐにゃぐにゃしてとらえどころのない言語。そこが面白い。ああも訳せる、こうも訳せる。論語も同じ魅力を持つ。それに似ている。どちらも速読には向かない。速読したい人を止める理由はないけれど。
現代語はそうはいかないかもしれないが、古典語の本は積ん読だけでもよいのでは?時折ランダムに例文に目を通しても、ヒントやインスピレーションがそこにはある。Homo sum.だって「うーむ」とうなる(はず)。英語だとI am a man. なのでピンとこないけれど。
ラテン語をやっていると日本語と欧米語との違いが気になるときあり。さっきもある人の文を読んでいて「お上」や「天下り」という言葉が気になった。あっちとこっちじゃ意識が180度違うのだな(あくまでも言葉の上かもしれぬが)。シビル・サーバントやプライムミニスターは日本語訳だと格好いいが。
ラテン語はとにかく授業に出てなんぼ。まさに継続は力なり。独学するといって授業に出なくなる者あとをたたず。だが「マスターするぞ」の意識が高い者に限って挫折する。さぼって家に帰ろうとした彼らも、出てると一年の最後にはめでたくキケローを読めるようになった。あの「スキーピオーの夢」をだ。