本叢書の訳者の多くはギリシア語・ラテン語初学の頃には、明日の演習のために徹夜に近い予習をしながら、これだけの時間に新書の一、二冊も読めばさぞ有意義であろうに、と思わぬ夜とてなかった。そこを我慢して辞書を繰り注釈書と格闘したのである。版元もいわゆる売れ筋なるものをよく承知していながら、文学部でも昨今最も人気のない西洋文献、その中でもとりわけ敬遠される古典文献学に立脚した作品群を、敢えて叢書として翻訳刊行しようとする。武士の商法としか言いようがない。読者もまた江湖に軽易な出版物の溢れる中で、敢えて寝っ転がっては読めない、噛みごたえのある書物を愛してくださる方々である。
日本は十九世紀の半ばから、長年の鎖国を解いて、西洋文明を積極的に受け入れはじめた。受容の姿勢は総じて「和魂洋才」、学問については「実学」の思想、掛声としては「富国強兵」であった。すなわち、日本古来の「魂」を恃みとして、西洋の学問と文明からは、国力増強に役立つ実益的なその先端部分を集中的に輸入する、ということである。 影響は後のちまで尾を引いた。学問分野では当然、理工系が法科経済と共に重んじられ。文学部系の洋学は、“虚学”として冷遇されることになる。そしてその虚学のうちでも、実に哲学においてさえ、最先端至上主義が幅をきかせてきた。 だがいうまでもなく、西洋の学問と文明はただ「才」としてあるのではなく、その長い伝統を培ってきた母体(マトリックス)があり、「魂」がある。その具体的な姿がギリシア・ローマの古典であって、わが国において和漢の古典籍がそうであったように、西洋の伝統においてこれらの古典は、知と教養の源泉でありつづけたのである。
幕末・明治から150年、「西洋」摂取の戦略によって日本は急速に近代化を達成し、大戦で叩かれた後は、「強兵」を諦めてもっぱら「富国」への道を邁進してきた。今日、かつての「和魂」は消散したかに見え、他方「洋学」としての科学技術文明は、その恩恵の反面、さまざまの深刻な負の波及効果を顕在化させている。この状況の中でいまこそわれわれは、ここに初めて西洋の知と教養の巨大な全容を読者に提供するべく蓄積された学会の総力を傾けて、息の長い努力をつづけていくつもりである。