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リー・クアンユー元首相が死去、シンガポール建国の父 | Reuters

シンガポール総合病院

リー氏はシンガポールが英連邦自治州になった1959年に首相に就任してから31年にわたり政権を担当。建国の父とされる。数年前に政治の表舞台からは退いていたが、2011年まで閣内にとどまり、影響力を持ち続けた。リー・シェンロン現首相は長男に当たる。


報道や言論の自由、政敵らに対しては厳しい統制を加える一方、マーケットに対しては実態に則した政策を取った。明確なビジョンを持っていると評価された一方、独裁的との批判もあった。


リー・クアンユー氏の死去と、数年後とみられる現首相の退任で、シンガポールは一時代が終わりを迎えることになる。ただ、産業への影響は少ないとの見方が多い。

シンガポール建国の父 リー元首相が死去 NHKニュース

リー・クアンユー元首相は、先月5日から肺炎のためシンガポールの病院に入院し、治療を受けてきましたが、23日未明に亡くなりました。
リー元首相は1965年にシンガポールが独立したあと、25年にわたって初代首相を務め、シンガポールの繁栄の基礎を築きました。
首相から退いたあとも、上級相や顧問相として4年前まで閣内にとどまり、存在感を示し続けました。
リー元首相の息子のリー・シェンロン首相は、テレビを通して国民に語りかけ、「私たちの建国の父はもういない。彼は私たちを励まし、勇気を与え、団結させて、ここまで導いた。彼のような人物はもう出てこないだろう」と述べました。
そのうえで、リー元首相の国民への最後のことばとして、「私がやるべきことは、もう何もない。最後に私が手にしたのは、繁栄したシンガポールだ」と読み上げました。

リー・クアンユー氏は1923年、イギリスの植民地だったシンガポールで裕福な商人の家に生まれました。第2次世界大戦中の日本の占領下で青年時代を過ごし、戦後、イギリスに留学して弁護士を経て政界に進出します。
1959年にイギリスから自治権を獲得したあと、初めて行われた選挙で35歳の若さで当選し、自治領の首相となりました。リー氏の指導の下、シンガポールは1963年にマラヤ連邦と統合してマレーシアが成立します。
しかし、シンガポールでは中国系の住民が多いのに対し、マレーシア全体ではマレー系住民が多数を占め、1965年に民族政策の違いから独立を余儀なくされ、リー氏は記者会見で涙を流します。
当時のシンガポールの人口は180万人余りで天然資源がなく、水すら輸入に頼る国だったため、リー氏は経済成長を最優先に掲げ、徹底した現実主義の下、国づくりの陣頭指揮を執ります。アメリカや日本などから資本と技術を呼び込み、政府主導で港湾や電力、工業団地などのインフラを整備して工業化を押し進めました。
また、リー氏は「人材こそが資源」だとして幼い頃から能力のある人材を選抜し、奨学金での海外留学を促進するなどエリート官僚を育成する教育制度を整えました。さらに、さまざまな優遇策によって外国から企業や人材を積極的に誘致し、シンガポールを東南アジアの貿易や金融の拠点へと成長させ、現在に至る成長モデルの基礎を築きました。
一方で、リー氏は経済成長のためには政治的な安定が不可欠だとして内政では言論を厳しく統制するなど強権的な政策を取り、批判的な言動に対しては名誉毀損で訴えるなどして野党勢力を弱体化させ、みずからが創設した与党「人民行動党」の事実上の一党支配を確立しました。
また、リー氏は日本をたびたび訪れ、高い勤労意欲や技術力、生産性を称賛し、日本の政治家や財界などとの交流も深め、両国の関係強化に努めました。

リー元首相 戦後日本の経済発展を手本に NHKニュース

リー元首相は戦後の日本の経済発展について、「徹底したこだわりをもって仕事に当たる日本の文化にある」として深く感銘を受けていました。みずからの著書には、訪問先で見た日本の料理人の包丁さばきや靴磨き職人の技などを驚きをもって見つめ、仕事に最善を尽くすその精神が日本の繁栄を築き上げたと記しています。
リー元首相は特に日本企業の生産性の高さに注目し、1980年代に入って、シンガポールの生産性を高めるため当時の日本生産性本部に協力を求めました。
リー元首相は生産性本部設立50周年のシンポジウムにビデオメッセージを寄せ、次のように感謝のことばを伝えていました。「日本の労働者の質の高さ、その仕事に対する責任感は素晴らしいものでこれが日本が戦後の廃虚から奇跡の回復を成し遂げた大きな要因の1つだ。当時、日本生産性本部の会長だった郷司浩平さんがお話になっていた『生産性はゴールのないマラソンのようなもの』ということばをよく覚えております」。
日本の経済界からは惜しむ声が挙がっています。経団連の前の会長の、住友化学米倉弘昌相談役は1970年代に住友化学シンガポールに進出して以来リー・クアンユー氏とたびたび交流してきました。
米倉相談役は「リー・クアンユーさんは独立当時、淡路島ほどの面積に250万人というシンガポール国民の生活をいかに保証していくかが重要だと認識していた。産業を興し、自由貿易を徹底するということが彼の国作りの思想だった。日本のことが非常に好きで、われわれがびっくりするくらい日本のことをよく知っていた。最近は日本の遅い動きを気にしていた。若い人が活躍できる世の中にすべきだと語っていたことを思い出す」と話していました。
また、リークアンユー氏は日本の企業経営者とも積極的に交流しました。大手エンジニアリング会社「日揮」の重久吉弘グループ代表は「非常に落ち着いた物腰で話しをする方でお話を聞くのが楽しみだった。中国で数多くのビジネスを手がけてきたがリー・クアンユーさんに中国ビジネスで重要なことは何か尋ねたところ『真の友人をつくりなさい』と教えてくれた。その後、中国のパートナーと真剣に交流するようになり事業を拡大できた」と話しています。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150307#1425724418
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080816#1218876263