今日はこれから、セミナー『人間とコスモス:古代から近代までの哲学・科学・宗教』で17世紀英国のロバート・ボイルのテクスト『自然についての自由な考察』(1686年)を読みます。宿題に出した生徒たちの解釈は真っ向から対立しているので、議論が楽しみです!
今年から2年かけて「キリスト教と現代思想」というプロジェクトを大学の予算で実施することになりました。かつて古代のキリスト教思想を研究しつつ、フランス現代思想を読んで来た私ですが、自分のなかでアナクロニックになっている両者の関係をこれを機に整理しようと思っています。
その下準備として、大学院でアガンベン(イタリア現代思想ですが)を読むことにしました(残念ながら日本語で)。『残りの時』や『高貴なる貧しさ』も一応ざっと読んだのですが、アガンベンがベンヤミンの終末論を「なぜ」、「どのように」キリスト教へと接続しているのか、まだ腑に落ちないからです。
アガンベンのネタ元の一つであるタウベス『パウロの政治神学』は、とても興味深い本だったのを覚えています。アガンベン=タウベスの解釈では、キリスト教の(というよりパウロの)終末論は、ユダヤ教のメシアニズムそのものなのだというものです。
中世哲学における「コメンタリー」という形で知を生み出すプロセスの重要性にたいして、ユダヤ人学者の方が意識的であるような印象があるのだけれど、それはやはり彼らにとって「釈義」というものが未だにリアルなものとしてあるからなのだろうなー。
パウロ的な「霊と文字」で言えば、ユダヤ人は釈義における「文字学=グラマトロジー」の重要性を認識しているのだろう・・・で、別様に言えばユダヤ人にはコメンタリーの重要性は話さないでもわかるけれど、そうでないとなぜ重要かを一から説明しないといけない・・・。