大きな声を出して、言葉を封じ込めようとする者たちを、あんな奴らは、と罵倒してもだめだ。違い場所にいるが、同じ事をしている。徒党を組んで語る者たちに抗するには独りになることだ。
言葉を封じ込もうとする者は、多くの人に伝わらなければ意味はないと叫び、独りでいる事の意味を否定するだろう。だが、忘れてはならない。彼らがそう言うのは、個として立つ者を恐れているからだ。彼らが本当の事を語り始めるのを知っているからだ。多くの人になど語らなくてよい。隣人に語れ。
誰も聞いてくれない、そう思って語ることを諦めてはならない。真摯な言葉であれば聞く人は、目の前にいなくても必ず存在する。書けばよい。眼前にいないからこそ書かなくてはならない。書くとは自分と未知なる他者への手紙なのである。勇気をふりしぼるべきはこうした孤独な営みにおいてではないのか。
沈黙のうちに、勇気のたいまつに火をともせ。それを見た者も、黙ったまま消えそうだった炎を自らの胸に蘇らせるだろう。顔を上げて、胸一杯に空気を吸い込み、眼をしっかり開いて歩くがよい。一番最初に見えてくるのは世の中の動向などではない。弱き者たちである。全身で何かを語る者たちの姿である。
「言論の自由」とは、何を語ってもよいということではない。恫喝や権力による威圧は「言論の自由」の埒外にある。それは根源的な意味における存在の自由を奪う行為だからだ。どうしてこのことを、もっと言論人は語らないのか。今、私たちが、本当に守らなくてはならないのは「自由」なのである。
人の主張の75%くらいは結論が先にあってそれに合わせて理屈が組み立てられるのである。そしてその結論の大半は好き嫌い。
「自然=いいもの」という考えが決定的に間違っていると思います。
nature とかnatural にだって「そういう肯定的な意味」は強くあるから,漢語の「自然」だけの問題ではないな。
思うに日本人にとっての法律は、義務でありルールの事であるが、フランス人にとっての法律は、自分や弱いものを守る為であり、自分や弱いものを守る為でない法律は、目を光らせていて、いつもできるだけ認めないようにしようとしている様に見える。
本当にそうか?と言われると私にはこう見えると言うだけの話だから、どう答えたら良いか。ただ、仏ではルールだから守らなければならないという感覚は小さく、なぜ守らなければならないのかという事が子供の時から問う傾向があり、
納得できなければそのルールは守らないという事が良くあります。子供だと思って何々をやれと命令すると、すぐに「なぜ?」って聞かれます。ちゃんと答えないと、いう事を聞かない子が続出です。私もどちらかというと、そうですが。日本では明らかにこうではありません。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150627#1435401465
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150620#1434796609
今日は宙組大劇場公演「王家に捧ぐ歌」を拝見してまいりました♪
そして、そして同期の花里まなも退団。
在団中 実は一度も二人ででかけたことなかった私達が何故か私が退団してから一番会う事が多くなったのが不思議と思っていたら
お稽古場で一緒の時が多く、その間ずっと喋っていたからだと言う事に気付きました。
話が終わらず帰り道で 立ち話になる事も
歌って毎日練習しないとすぐに歌えなくなるのに
、中々自分だけの声を聞いてもらう機会はまわってこない。
披露するチャンスがあるか分からないのに
ずっとずっと 毎日毎日練習するのって
結構 根性と気力がいるものです。