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Kuni Sakamoto

グラフトン『テクストの擁護者たち』は、ルネサンスから19世紀を舞台に展開された古典作品解釈の歴史を追った著作です。え、文献学ですか?訓詁学ですか?細かくて退屈では?いやいや確かに細かいのですけど、しかしその細かさのうちにいかに多くのことがかかっていたかを明らかにする書物なのです。

Kuni Sakamoto

実はルネサンス人文主義が出てきた瞬間から、すでに「こんな細かい字句にこだわってどうするの?」という疑念はつねづね表明されていました。字面にこだわって古代世界の細部を再構成してどうするの?古典から学ぶべきは文章の美しい書き方や、いまに活きる教訓なんじゃないの?

Kuni Sakamoto

これにたいして古典は教訓の引き出しじゃない。そこからそれを生み出した時代を再構成する道具だ。文献学の洗練は精確な歴史理解のためにある。こう主張する一群の人々がいました。グラフトンの美しい論述を読んであなたは思うでしょう―ああ、なんだむかしから同じような対立があるのね…。

Kuni Sakamoto

と思いきや、グラフトンはこの対立に予想もしない次元をつけ加えていきます。過去の精確な再構成を目指す人々は、それによってどんな過去を再構成しようとしていたのか。彼らはソフォクレス一神教を切り離し、ヘルメス文書からキリスト教を予見していたという性質を剥ぎ取りました。

Kuni Sakamoto

こうして彼らは、異教の伝統からキリスト教を切断しようとした。遠い古代には賢者たちが共通の一つの神を崇拝していたのだという、ルネサンスの「古代神学」の理念を、文献学を通じて、一字一句に拘泥することによって崩そうとした。カソボンやベントリーといった近代文献学の祖たちの営みです。

Kuni Sakamoto

いまのために過去から教訓を引き出そうとする人々を嘲笑するテクストの擁護者たちの営みも、やはりいまのために行われていたのです。純化されたキリスト教を復興させねばならない。この次元をとらえねば、あらゆる古典テクストを毎朝5時に起きて(!)理解せんとしたカソボンの執念は理解されません。

Kuni Sakamoto

では異教の伝統と、キリスト教の伝統は文献学のなかで切れてしまう?そうではない。グラフトンが最終章でしめすのは、はじまりの異教作品への新たな理解が19世紀ドイツで生まれたとき何が起きたのかです。『イリアス』を旧約聖書のように読むとはどういうことなのか?すばらしい章です。涙がでます。

Kuni Sakamoto

文献学者たちとその敵対者たち、彼らが対峙していたキリスト教と異教の伝統、さらには新たに生まれようとする自然科学―これらの領域を自在に往復し、私たちが知らなかった人文学のはじまりの様子を明らかにする。『テクストの擁護者たち』、必読です。http://amzn.to/1NGfMY0


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