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数字と情感と教育 - 岩田健太郎

で、去年からエボラやデングの数理モデルをお手伝いするようになり、今年からまじめに勉強することにした。ところが、高校出てから数学やってないのでぜんぶおさらいしなければならない。感染症数理モデルの教科書を読んでもよく理解できないので、数理モデルそのものの教科書を開く。それでもピンと来ないので、基礎となる微分方程式の教科書を読む。まだピンと来ないので微分積分を復習する。ここで三角関数(サイン、コサイン)がでてくる。行列も勉強せねばならない。というわけで、かなりドボ漬けになった。


ここまでやると、これまでフワフワと使っていた統計解析の諸式も少し見え方が変わってくる。使いこなしていた(つもりになっていた)ベイズの定理の見え方も変わってくる。数字のクオリアもより明確に見えてくる。数字にはクオリアがあり、医学生が臨床医になる際にまっさきに感得すべきはこの数字のクオリアである。しかし、数学を勉強するとさらに異なる、深みのある、色彩豊かな数字の姿が見えてくる。

高校時代は授業もまともに出ずにすぐに図書館に逃げるような生活をしていたと思っていたが、不思議なことに数学を学び直すと、20年以上前の勉強の記憶が蘇ってくる。あれをサラから勉強するのはおそらくかなり大変なはずだが、高校時代にやった記憶を呼び戻すだけならわりと容易である。高校時代に数学と取っ組み合うのは、よいことなのだ。

ぼくは今になって子供時代にやった(やらされた)玄関掃除や靴磨きや炊事のまね事や畑仕事を「やっていてよかった」と感じられるようになっている

要するに快楽は大事なのであり、数学を学ぶとはこの「快感を得る」体験そのものなのだと思う。数学者の多くは数学を教えたり取っ組み合っているとき、実に恍惚とした表情をしているし。


惜しむらくは、高校時代に数学を「手段」ではなく「目的」として学ぶ姿勢を持っておけばさらによかったであろうということだ。ぼくが高校生の頃は「受験戦争」の時代で、全ての勉強は受験の道具であった。これが多くの高校生に「学問は手段である」との観念を植え付けさせ、よって「利得が得られない学問は無意味」という先の知事的な観念をもたらした。

岡潔の残した書物は教育に関する言葉が多い。手段ではなく、目的としての学問に向かう姿勢、情緒としてのその姿勢を説いている。多くの教育関係者は読むべきだし、とりわけ学問をどんどん「やすい」ものに劣化させている文科省の人たちは一度は岡潔の言葉を肝に銘じるべきである。

「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くのがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのではおのずから違うというだけのことである」 

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