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早川由紀夫

あー、鬼怒川の決壊地点、ここで小貝川に合流してた場所だ。それを、人工的に台地をショートカットして利根川に合流させてる。増水した鬼怒川は昔の流路を選んだだけだったのだ。

安岡正篤を学ぶ - 学問の四焉/安岡正篤一日一言 学問には四焉(えん)の境地がある。...

学問には四焉(えん)の境地がある。
第一が修焉、之(これ)を修め、次に焉(これ)を蔵し、次の次に息焉、漢字の先生は之に「いこい」之に「やすみ」というふうに、学問研究の中に、ゆっくりと焦(あせ)らず入ることと説きますが、私はこれをその通り息(イキ)と解してよいと思うんです。
之に息するとは、学問を人間の呼吸と同じようにするという意味です。
我々の息が健全であるように、学問も自然に乱れないことです。
最後は遊でありますが、漢民族の歴史は黄河の水をどう治めるかに終始しますが、その結論は、水の流れに下手に逆らわないで、ゆったりと遊ばせる優遊の境に到ったわけです。
人間も気まま、わがままにゆき乍(なが)ら、矩(のり)を超えざる境地に到ることを理想としたのです。

蔵脩息游 - 『礼記』が説く学問の在り方 / その他の東洋思想 | 講老箚記 - 東洋思想・哲学・文化の研究

君子の学に於けるや、焉(これ)を蔵し、焉を脩し、焉に息し、焉に游ぶ。

白川静の「遊字論」は「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた」と始まり、「遊」は白川静が非常に好んだ文字として知られます。


説文解字』には「游」の字が収められており、「旌旗の流なり」とされます。氏族の旗をなびかせて行くことは、氏族の霊と共に旅をすることであり、「遊びは神人合一の世界」であるというのが白川静の考え方です。

四焉

 嫌々やっているような学問では本物ではない。要するに、お前はいま何が欲しいかと聞かれた時に、学問が欲しい、何が一番好きかと問われたら、学問が一番好きだと、こうならなければ本当の学問ではない。


そして、学問には四焉というものがある。「礼記」の中に「焉を蔵め、焉を修め、焉を息し、焉に游ぶ」とある。


学問というのは、これを修めっぱなしでは何にもならない。それを体の中に入れて、そうして息する、呼吸する。息をしておるように学問が息にならなければいけない。


そうすることによって、長江大河が悠々として流れていくような「游」という段階に入る。息游であります。

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