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#24 軽井沢への道  人はどう峠を越えてきた? | タモリのブラブラ足跡マップ | ブラタモリ - NHK

碓氷峠 - Wikipedia

信濃川水系利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。

1200 万年ほど前には現在の碓氷峠は海中にあり、クジラやサメなどが生息していた。700 万 - 200 万年前には碓氷川上流地域で噴火活動があり、110 万 - 65 万年前の溶岩噴出碓氷峠付近は平地となった。その後、30 万 - 20 万年前に霧積川によって東部で侵食があり、急な崖が形成された。

東部が激しく侵食された結果、現在の碓氷峠は直線距離で約 10 km の間に標高差が 500 m 以上に達する急峻な東側のみの片勾配となっていて、群馬県側の麓・横川の標高 387 m に対し、長野県側の軽井沢は標高 939 m と峠 (960 m) との標高差がほとんどない。特に、中仙道を例に取ると坂本宿から刎石山までの水平距離 700 m の間に標高差が 300 m もある。そのため一般的な、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる両勾配を持つ峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えた。

気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。

古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が中央高地文化圏・東海東山方言に分かれている。

中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には熊野皇大神社碓氷峠熊野神社があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる。


応永30年(1423年)の国人一揆や永享12年(1440年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。

江戸時代には中山道五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。峠の前後には坂本宿・軽井沢宿が置かれている。

明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は国道18号(の旧道)にあたり、坂本宿からその後碓氷湖が作られたあたりまではおおむね和宮道(正しくは、(明治天皇)御巡幸道路であり、和宮道は、熊野神社北側から子持山の南西あたりまでをいう)を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に 3 km ほどの場所に移動した。

交通需要の高まりに応えるため1971年に国道18号のバイパスである有料道路の碓氷バイパス(入山峠を通る、かつての古東山道のルート)が開通した。碓氷バイパスは2001年11月11日より無料化され、かつての中山道はハイキングコースとして整備された。1993年には上信越自動車道が開通したことから、1979年には交通量が 2,000 台/日あった明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。

鉄道においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅 - 直江津駅間が1888年に開通すると当区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。スイッチバックループ線などを設ける方法では対処できないため、視察したドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)ラックレールを用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で 66.7 ‰(= 1⁄15。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長のボーナルは和美峠や入山峠を通る 1⁄40 程度の勾配の案を提示している。

なお、当時の通常の蒸気機関車ではこの傾斜の登坂が困難であったが、その後技術の進歩により、京阪京津線碓氷峠と同じ 66.7 ‰(約 3.8 度)、さらに箱根登山鉄道は 80 ‰(約 4.6 度)の勾配をラックレールなしで登坂している。

峠 - Wikipedia

峠の片側にのみ大きな高低差があってもう一方の側が平坦に近いものを片峠という。日本での片峠の代表的な事例としては碓氷峠がある。

碓氷第三橋梁 - Wikipedia
アプトの道 - Wikipedia
国鉄ED42形電気機関車 - Wikipedia
国鉄EF63形電気機関車 - Wikipedia
碓氷峠鉄道文化むら - Wikipedia
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