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 ローマ教会を真っ向から批判したため、ルターは破門されますが、ローマ教会の世俗権力との野合や腐敗に不満を抱いていた人々の支持を集め、新たな宗派を形成していきました。これが「プロテスタント」(抗議する者)です。プロテスタントに「牧師」はいますが、特別の地位はなく、信仰の「先生」にすぎません。このためカトリックの「神父」と異なり結婚してもよいし、女性もなれます。プロテスタントは、キリスト教に厳密な合理性と哲学性を与え、「信仰の近代化」を推し進めていった、と見ることができます。


 カトリックでは、イエスを生んだ聖母マリアや聖ヨハネ、聖ペトロなどの聖人への信仰が非常に大きな位置を占めています。マリアや聖人を描いた宗教絵画が数多く残されているのは、そのためです。


 一方、合理的なプロテスタントでは聖人信仰には重きは置かれず、マリアも普通の人間扱いです。宗教画を描くことは偶像崇拝になりかねないからと消極的で、バッハに代表される宗教音楽が歓迎されました。その結果、プロテスタント教会カトリックとは対照的に簡素で質朴です。

 プロテスタントは、やりたい放題やって、最後は「神さま、あとはお任せします」と万歳してしまうのは、まさに聖書にある「放蕩息子の帰還」のようで、いくらなんでも虫がよすぎて、神に委ねすぎだろう、と思うのでしょう。でも、カトリックに言わせれば、人間が一生懸命考えて、「こうでなければならない」と決め、そのとおりに行動するのは、神の力をそれだけ認めていないということで不〓で僭越なことです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる」(イザヤ書五五―八、新共同訳)という言葉があるように神さまが考えることは人間にはわからない、簡単に理解されてしまうようでは、それは神ではないだろう、とキリスト教徒は考えます。


 そこでカトリックは「下手の考え休むに似たり」なのだから、人間の知恵に頼りすぎるのは小賢しい、むしろ神にすべてを委ねてしまおう、と考えますが、プロテスタントは、「親しき仲にも礼儀あり」。頼り委ねるにしても、やるべきことをやってからではないか、と人間の知恵をはたらかせ、神に対して礼節を尽くそうとします。でも、カトリックからすれば、プロテスタントは神を恭しく奉っているけれども、神を人間の理性で捉えられる領域に引き寄せすぎのように見えたりする。

 欧州の地図を眺めてみると、先ほども述べたようにカトリック信者が多い国はイタリア、スペイン、ポルトガルなど「南」にあるのに対し、プロテスタントの伝統を色濃く保っている国はドイツ北部やオランダなど「北」に位置しています。デンマークフィンランドなどEU(欧州連合)の優等生となった北欧諸国もプロテスタント系です。

 イギリスはプロテスタントというより「海賊国家」として見たほうが、その性格がよくわかります。大海原と付き合ってきたせいか、「計画しても思い通りになるものではない」という感覚がある。このあたりはカトリックの気風に近いかもしれません。危機が起きたときは、まずその渦に飛び込み、右往左往しながらも、何とか解決の糸口をつかみ、出口を見つけて、危機を切り抜ける。英語で言うところの「マドル・スルー」という問題解決法を好みます。「行けばわかるさ」と真っ先に危機に飛び込んでいくのがイギリス人だとすれば、それを傍目に見ながら、「プランもゴールも決めないわけ?」と不安に陥るのが大陸欧州人たちです。

 それはそれとして、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』について考えると、何がいえるでしょうか。


 ヴェーバーが注目したのは、ルターに続いて、スイスで宗教改革を進めたカルヴァンの「予定説」です。それによれば、「最後の審判」で誰が救われるかは、あらかじめ決められているので、ローマ教会が販売していた贖宥状を買おうが、善行や功徳をいくら積もうが、裁きを変えることはできません。誰が救われるかは、神のみぞ知るです。しかし、救われる人間ならば、敬虔な生活を送っているに違いない。それでは敬虔な生活とは何か? カルヴァンはそれは単に祈りを捧げるだけの修道士のような生活ではなく、「天職」や「召命」とみなしうる職業生活に身を捧げ、蓄財に励む生活だとしました。不確かな救済を期待しつつ、目の前の仕事に打ち込むしかない、という禁欲的で勤勉な倫理が、逆に資本主義を発展させるにはなくてはならない「蓄積」のエートス(心性)を生み出したというわけです。


 余計なことを考えずに、目前の課題に取り組む。確かに、私が知っているドイツ人たちにも、そうした面が強いと思います。結構、早寝早起きで、昼食を食べる時間もせいぜい三十分程度。シエスタはもちろんありません。その意味では今なお、「プロテスタンティズムの倫理」は健在なのだといえるでしょう。

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