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『日本精神通義』
P115

 正法を穏やかに説くのは摂受(しょうじゅ)と言って、濁世の頑民らにはも一つ効果がありません。彼らにはむしろ真っ向から正法をふりかざし、彼らの反感を挑発し、憤怒を煽動し、怨嫉(えんしつ)を暴露せしめ、あらゆる軽薄と偽善との鴆毒(ちんどく)を滌蕩(てきとう)して、一挙に法華経に転入せしめるのが有効なる方法であります。これを「逆化下種(ぎゃっげかしゅ)」と申します。かの頑民は必ず始め日蓮の正法獅子吼に対して反感を持ち、憤怒迫害の結果、一層悩みを深くし、災いを蒙り、内乱外患のために進退に窮して、ここに始めて衷心から「南無妙法蓮華経」と唱えるでありましょう。これ頑民の「懺悔滅罪」であります。いや、頑民ばかりではありません。かくして迫害をこうむり窮厄に苦しむのはすなわち自分自身が法華経を疎かにしておった罪のいたすところで、頑民における懺悔滅罪はとりもなおさず自分の「儀表滅罪」であります。この大精神をもって彼はひたすら現実に仏国宝土を作り、戒壇建立に努力いたしました。この法門が彼の人格と相まって、いかに世人の魂を感動させたかは申すまでもありません。平安朝にはとても見られない宗教で、しみじみ時運というものを痛感させられるではありませんか。

『東洋人物学』
P14

罵られれば、相手も「何を!」と昂奮する。その昂奮した相手を法門の場に引きずり込み、論破する、これが日蓮上人の逆化である。だから、日蓮宗は太鼓のことを毒鼓(どっく)という。この毒鼓を盛んに鳴らして攻め立てる。そして相手をねじ伏せる。これを折伏(しゃくぶく)という。これも「逆化門」の一法である。今日のように穢国悪世の時代、末法の世はたしかに逆化は一つの生き生きとした法門であることは間違いない。
 しかし、この毒鼓も折伏も逆化も、一番先に為さねばならんことがある。それはまず己れに向かってやることです。

P16

 私はどちらかというと自らを修め、人を修めるという意味において、「摂受門」を本意としております。しかし、「逆化門」にそのような失態があるように、「摂受門」にも真剣味が足りない、英知が足りない、努力が足りないという問題があります。そこで、「摂受門」の人は時に「逆化門」を学び、「逆化門」の人は時に「摂受門」に学ぶということがきわめて大事なことである。
 とりわけ、現代において逆化は非常に必要である。必要であるだけに、その逆化を誤ってはいけない。正しく逆化というものを学び、心身ともに会得しなければならないのであります。

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