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名僧に聞く 生老病死すべてに答える - 鵜飼秀徳(浄土宗僧侶・ジャーナリスト)

塩沼亮潤(大峯千日回峰行大行満大阿闍梨

 実は、「失敗したらどうしよう」とか「もう嫌だ」と思ったことは一度もないのです。行に入る前も、歩いているさなかも、行を達成する自分の姿しか想像できませんでした。

不思議と千日回峰行を終えたという達成感は一切ありませんでした。いつもと同じような心境で、いつものように戻ってきました。

私が実践しているのは修験道という、神道が融合した仏教の一形態です。「修験」とは、「実修実験」のこと。つまり大自然の中に飛び込み、暑さ、寒さ、辛さ、苦しさ、悲しさを実際に体験し、体得していくということです。


 心身ともにボロボロになってきた時、ふと足元を見るとささやかな花が咲いている。「うわー、本当にきれいだなあ」と自分が生かされていることを自覚して、本当に涙が出てくるのです。そして、さらに深い思考に入っていく。花は別に私を感動させるために咲いているんじゃない。天に向かって自分のなすべき姿を表現しているだけなのに、疲れ切った自分を癒してくれている―。そこで「自分は周りの人たちに対してそういう存在であったかな」と気づくのです。山に入ると、そういう、ささやかな気づきの連続です。

 私の家は、中学2年のとき両親が離婚、母親と祖母の3人で貧しい生活を送っていました。家計を助けるために喫茶店でアルバイトをし、パチンコ屋に通って落ちていた玉を増やし、味噌や醤油などの景品をいただいて家に持ち帰るような毎日でした。

 そうした方々によく話させていただくのは、悩んだら体を動かしてください、ということです。人間の筋肉の3分の2が足にあるといわれています。歩けば体全体の血流が良くなり、頭も冴えてくる。体を動かしながら、自問自答を繰り返すことで、自分を深く知る。それは修験の教えにもつながるのです。


 私はたまたま千日回峰行をしてしまっただけで、世間からはそこをクローズアップされることが多いのですが、千日回峰行は大切な体験ではあるけれど、今の私を支えているのは、いま日々行っているお勤めであり、農作業であり、信者の皆さんとの語らいです。毎日を一生懸命生きて、悪いことをしない。それが本当の修行だと思うのです。

ネルケ無方(安泰寺住職)

 私から見ると、日本人は暮らしのなかで意識しないで宗教を実践しています。禅寺では、食事や掃除といった日常生活のすべてが修行ですが、これは一般の日本人にも当てはまる。たとえば小学校の給食の時間では、その食事にかかわった人たちに感謝する意味で、みんなで「いただきます」と唱える。学校だけでなく、一部の会社でも、自分たちで掃除を行いますが、これも教室や社屋への恩返しでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151207#1449484723
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