これまったくそう。ただの外野に過ぎない元新左翼より、支配者である元警察官僚の方が、運動の表面的なラディカルさより根深い大衆性の方が政治的に脅威だとわかるんだよね。 https://t.co/98M6z2zfi2
— こたつぬこ (@sangituyama) 2016, 1月 21
70年安保のとき警察のトップだった後藤田正晴は、回顧録で「当時の若者たちの気持ちはよくわかった、でも社会は安定しているから、いずれ消えると思っていた」と書いてるんだよね。やっぱ支配者だから、目先の過激な行動より社会全体が実は安定していることから事態をみていた。
— こたつぬこ (@sangituyama) 2016, 1月 21
あさま山荘事件などで後藤田正晴が出した指令は「絶対に過激派を殺してはならない。こちらが殺されてもダメだ」というもの。つまり殉教者を出すことで、世論が過激派側に傾くことを阻止したわけ。そして倫理的・道徳的に、新左翼は警察に完敗したわけです。
3・11後の運動は、この反省のうえにある
— こたつぬこ (@sangituyama) 2016, 1月 21
運動側が「警察をもちろん殺さないし、傷つけない、不用意に敵対視しない」ことで、倫理的・道徳的な優位性をうちたて、多数の人々が正当に結集できる場をつくりだしたわけです。かつて亀井静香は「共謀罪なんていらないよ、そんなのなくても新左翼つぶしたもん」といってましたが、
— こたつぬこ (@sangituyama) 2016, 1月 21
そんな亀井が運動に共鳴し、野党共闘に奔走するような局面を、いまの運動の道徳性、倫理性の高さがつくりだしたわけです。つまり辺見庸的なラディカリズムは、今も昔も警察や支配層にとっては、「反抗期」程度のチョロイものにしかすぎないわけですわ。
— こたつぬこ (@sangituyama) 2016, 1月 21
このような運動の道徳性、倫理性を強調すると、辺見庸的新左翼ラディカルから大衆迎合と指弾されるだろうが、実際は逆で求心力を高めて人々を惹きつけるんですよね。辺見庸こそが実際は大衆読者に寄生してるだけで、なんら具体的な運動につながりもしないのはみてのとおり。
— こたつぬこ (@sangituyama) 2016, 1月 21