ライプニッツの「盲目的思考」が面白いのは、それがほとんど意識的には認識されない知覚である「微小表象」に使われ、同時に、記号がなにを指すかは知ることができなくても、記号操作による推論(盲目的思考)にも使われることにある。後者は、新たな人工言語としての普遍言語の創造にむかう。
— Naoya Mori (@b4mori1) 2016, 2月 22
ライプニッツ『結合術』(1666)20歳
— Naoya Mori (@b4mori1) 2016, 2月 21
結合術の基本的な考えは、複雑な思想をそれを構成する単純な概念に分解し、次にあるメカニズムを通してそれらを結合し、これまでに考えられもしなかったようなものさえもふくめ、複雑な概念や命題を生成させることにある。
ーR・アーサー『ライプニッツ』
ライプニッツは、ルルスの結合術的アプローチとホッブズの数学的計算としての推論を融合し、論理学を数学の一分野として考えられるようにした。記号についても、大事なのは記号そのものではなく、記号の結ばれ方にあると考えた。
— Naoya Mori (@b4mori1) 2016, 2月 21
→「盲目的思考」
「盲目的思考」は『人間知覚新論』の原文では’pensées sourdes’であり、ライプニッツはラテン語で’cogitationes caecae’とも言い換えている。Lattaはsourdesをinsensibleとした上で’blind thought’ と英訳。
— Naoya Mori (@b4mori1) 2016, 2月 22
このLeibnizのpensées sourdesについては、Claire FauvergueがそのDiderot lecteur de Leibnizや近著『啓蒙とライプニッツ』で重視していたことが思い出される。自分もディドロを理解するおそらく枢要な導入的概念と思う。
— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2016, 2月 22
ライプニッツは,書かれ,描かれ,刻まれた符号はすべて記号だと考えた。
たとえばエジプトや中国の象形文字,天文学者や化学者の用いる記号も記号で
あるが,この種の記号は記号とその対象との直接的関連の故に実記号と呼ばれ
る。これに対して,算術の数字や代数学の記号は記号とその対象との間接的関
連の故に観念的記号と呼ばれる。そしてライプニッツの認識方法論では,直観
的認識と記号的認識とは明確に区別される。純粋な観取としての,真にイデア
を「直視すること 」である直観的認識に対して,記号による認識は「盲目的認
識(思考)J」として区別され
盲目的思考は代数学や算術において,それどころか至るところで人聞が用い
ている思考であり,これに対して,一つの概念に含まれているすべての絶対に
単純な概念が同時に見て取れる直観的認識は,本質的には神のものである。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160221#1456051198
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160221#1456051201
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160221#1456051202
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160201#1454322965
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160103#1451817483
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150410#1428662703
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141207#1417949013
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141206#1417862193
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071228#1198896944