NHK BSプレミアム 02/28 18:00 真田丸(8)「調略」 https://t.co/XwHQKWeW8F #nhkbsp
— NHK BSプレミアム (@NHK_BS_Premium) 2016年2月28日
登場人物 春日 信達 (前川 泰之)|NHK大河ドラマ『真田丸』
高坂昌元 - Wikipedia
その後、昌元は上杉景勝に属したが同年7月13日、真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚して、景勝によって誅殺された。これにより、高坂氏嫡流は滅亡した。
さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った長可の弟、森忠政によって信濃に残っていた昌元の一族は残らず探し出され18年前に長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された。(森家先代実録)
元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていた
1600年(慶長5年)2月に田丸直昌4万石と領地を交換する形で森忠政が13万7500石で兄の森長可所縁の土地へ入封し、同時に豊臣家の蔵入地9万石は廃止された。この時、海津城から待城(まつしろ)へと改名された。
1711年(正徳元年)幕命により松代城と名を改められた。
カリスマ考証家が語り尽くす大河ドラマ「真田丸」の世界 - 二木謙一
まず今回のドラマの主人公が真田信繁(幸村)、それも武田家滅亡から始まると知って、私は、これはまた大胆な、と驚きました。というのも、歴史家からすると、「真田幸村」ほど人気、知名度の高さに比べ、実態のわからない人物もいないからです。
幸村といえば大坂の陣です。世はほぼ徳川の天下と決したのにもかかわらず、義を貫いて豊臣氏に味方し、冬の陣では、「真田丸」と名付けた砦を拠点に大奮闘。いっそう情勢が悪化した夏の陣で、徳川家康から信濃一国を示されても歯牙にもかけず、合戦となれば敵本陣に猛攻をかけ、あの家康に自害を覚悟させるほどの打撃を与えた。さらには壮絶に討ち死にし、敵からも「日の本一の兵」と賞される。しかも、明るくて優しい。講談では、猿飛佐助ら忍者軍団「真田十勇士」を率いて大活躍。これほど日本人好みでドラマ向きの英雄もありません。
ところが、歴史ドラマの主人公、ことに大河の主役となると話は別。これほど難しい主人公はいません。もともと小大名である真田家はあまり史料が遺されていないからです。ましてや伝説の「真田幸村」ではなく、歴史上の「真田信繁」となると、史料はほとんどない。「幸村」という名前からして後世の創作なのです。
前にも述べたように、真田家は北信濃と西上野を拠点としたちっぽけな大名です。武田家の家臣とはいうものの、東は北条、北は上杉、西からは織田・徳川の脅威を受けるという過酷な条件下で、必死に生き残りをかける、嵐の中の小舟のような存在です。当主の昌幸としては、絶対的な主君、信玄はとうになく、勝頼も昌幸を信じきれずに死んでしまった。ドラマは、頼りになるものは何もないところから始まります。智謀で名高いスーパーマン一家の物語であるかにみえて、大国の意向や状況に翻弄される「普通の自営業家族」の物語でもあるわけです。
すでに放映された部分の復習も兼ねて、簡単に説明しますと、西から進軍した織田氏・徳川氏が武田を滅ぼす。そこで昌幸は、織田の軍門に下って領土の一部を安堵されますが、そのわずか三カ月後に、本能寺の変で信長が落命します。
その力の空白に乗じて、甲斐・信濃占領に乗り出す徳川。これに昌幸は上杉、北条を後ろ盾にして対峙しますが、北条氏政(高嶋政伸)が甲斐に攻め入ると、昌幸は北条を裏切って、徳川に帰順するのです。
ところが、その徳川は北条と和睦を進めてしまい、「上野は北条の領土」と認め、真田の拠点である沼田城を明け渡せと迫る。これを拒絶した昌幸は、今度は上杉景勝(遠藤憲一)に頼って、徳川との関係を絶つ。このとき、十九歳の信繁は上杉の人質となります。
わずかの間に、織田→上杉、北条→徳川→上杉と、次々と同盟関係(というより、頼りにする主君)を鞍替えする昌幸は確かにしたたかな戦国武将ですが、一方で、戦国時代とは義が尊ばれた時代でもありました。
「真田丸」のなかで、同じ勝頼を裏切った家臣でも、以前から織田と通じていた穴山梅雪(榎木孝明)は厚遇されたのに、織田怖さのあまり突然寝返った小山田信茂(温水洋一)は斬られてしまう。同じ裏切るにも、信用度が違うというわけです。
ことに多くの家臣を率いる大大名ともなれば、むしろ義に厚いことが家臣からも信頼され、尊敬を受ける大事な要素となりました。北条氏の総帥、北条氏綱は「人の命はわずかの間なれば、むさき心底ゆめゆめあるべからず」と、むさき心、すなわち裏切りなどの見苦しい醜い心を戒める言葉を残しています。
のちに昌幸のことを、秀吉が「表裏比興(卑怯)の者」、表裏のある卑怯者と評していますが、これもしたたか者とのプラス評価半分、警戒半分の言だといえるでしょう。
長男の信幸は家康のもとに人質として出され、家康側近の本多忠勝の娘を妻とします。それに対し、秀吉の人質となった信繁は、秀吉側近の大谷吉継の娘を正室に迎える。ちなみに、いまドラマで活躍中のきり(長澤まさみ)、梅(黒木華)はいずれも側室になります。
そして、奇しくもこの縁組みによって、関ヶ原の合戦で、真田家親子は豊臣方(昌幸、信繁)と徳川方(信幸)に分かれることになるのです。
実は、私はもうひとつの隠れた「見どころ」があると考えています。
それは「九度山」です。
関ヶ原で豊臣方についた昌幸・信繁は、信幸の必死の助命嘆願によって死罪を免れ、高野山の麓、九度山での蟄居を命じられます。このとき信繁34歳、昌幸54歳。それから大坂の陣まで、実に14年間も幽閉生活が続く。
実は大坂の陣は一種のジェノサイド(虐殺)でした。当時のイギリス商館員リチャード・ウィッカムは、「12万人虐殺され、逃走追走せり」(『慶元イギリス書翰』)と記しています。
それは家康の戦争目的が二つあったからです。ひとつは、豊臣家を滅ぼすため。そしてもうひとつは、大量の浪人を討滅するためでした。
関ヶ原後、家康は、敵方についた88の大名を取り潰し、減封も含めて93大名を処分しました。その結果、没収した石高は実に630万石にも上ります。およそ一万石で抱えられる軍役は約250人ですから、20万人近い失業者が出たことになります。しかも、彼らはさっきまで殺し合いを日常とし、武装もしていました。徳川の治安を維持するためには、どうにかして排除しなければならない存在だったのです。大坂城での決戦は、まさに全国の浪人を集結させる、恰好の戦いでもありました。夏の陣も冬の陣も、徳川勢は敵のおよそ2倍の兵力を投入、最後は一方的な戦いとなりました。
そのなかにあって、武士としての死に場所を見出し、豊臣家への「義」のために戦った信繁の存在は大きかったと思うのです。彼の、無類に明るく清々しい奮闘がなければ、大坂の陣は、はるかに凄惨な歴史として記録されたでしょう。
そう考えてみると、信繁を神格化し、天下の名将ともちあげたのは、家康の巧みな戦後処理だったのかもしれません。
また昌幸が権謀術数の限りを尽くして生き残りをはかった真田家も、「義」のために死んだ信繁=幸村によって後世に長く名を残したわけです。これも智謀と義、ときに相反する二つの原理を重視した戦国という時代をよくあらわしているといえます。