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“豊臣秀吉が、織田信長より優れていた点とは?”歴史に学ぶ「戦わずして勝つ」法|最強の成功哲学書 世界史|ダイヤモンド・オンライン

「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らう徳川」

信長は天才肌・激情型・猪突猛進。
秀吉は努力家・人情型・熟慮断行。

 信長は、伊勢長島を10万の兵で包囲すると、城をひとつ陥とすごとに城内の者すべて、女子どもを問わず皆殺し! 比叡山や石山でも同じような按配でした。こうした信長のやり方は日本人の価値観にそぐわず、当時から非難の的となって、冷酷・非道・残忍・無慈悲……と、その評価は散々となります。


 しかしながら、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉に、「創造者たらんとする者は、まず破壊者でなければならない」というものがあります。


 たとえば「新しい建物」を建てようと思ったら、その前にどうしても「古い建物」を取り壊さなければならないように、新しき時代を創造せんとする者は、まずその前に“旧き時代の遺物”を破壊しなければなりません。


信長の野望天下布武」は、この長く続いた戦乱の世(旧時代)を終わらせ、天下統一(新時代)を創造しようとするものです。ゆえに、彼に与えられた歴史的役割は、彼自身が「破壊者」となって”旧き世の遺物”にしがみつく輩を徹底排除することです。たとえ信長が好むと好まざるとにかかわらず。


 彼の一見残忍非道と見える所業も、そうした“大きな視野”から見れば、致し方ない側面もあったのです。


 逆に、それができない者に、”新時代の創造者”たる資格はありません。武田信玄上杉謙信らが、ともに「戦国最強」と謳われるほどの軍団を擁しながら天下を獲ることができなかった最大の理由がそこにあります。彼らは信長のような「破壊者」になれなかったのです。

 さて、信長のように「武を以て天下を制す(天下布武)」道を選んだ人物として、中国には項羽(こうう)、ヨーロッパにはナポレオンがいます。この2人もまた、卓越した軍事力で勝利を重ねながら、戦えば戦うほど敵が増え、包囲網が築かれ、味方は消耗する一方で、勝てば勝つほど戦況が悪化していきました。


 事実、天下が目の前にまで迫ったそのとき、信長に生じた一瞬の油断を突かれ、彼は本能寺に散ることになります。本能寺の変の直接の原因は現在に至るまでわかっていませんが、大局的にはこうした信長のやり方に対する不満が方々に拡がり、それが巡り巡って起きたことと言ってよいでしょう。


信長の場合、「天下布武」のためにはある程度致し方ないとはいえ、やはりこうした「敵を殲滅する」というやり方は、一時的に奏功するように見えても、長い目で見れば、結局我が身を亡ぼすことになる、ということを歴史は語っています。

 これに対し、秀吉は信長とは対照的です。彼の言葉に、こんなものがあります。「敵の逃げ道を作ってから攻めよ」


 彼は、信長のように「敵を殲滅しよう」とはしません。攻めるにしても、まず「逃げ道」を作ってやってから攻めます。秀吉が備中高松城(毛利勢)を攻めあぐねていたときのこと。ある急報に秀吉は愕然とします。


「上様(信長)、本能寺にて討死!」


 秀吉はただちに毛利と和睦し、京へと急ぎます。これがあの有名な”中国大返し”で、秀吉軍は、京の入口に当たる山崎(淀川と天王山に挟まれた隘路)で、これを迎え討たんとする明智軍と決戦となりました。所謂「山崎合戦(天王山の戦い)」ですが、秀吉軍の想定外の軍事行動に、準備不足の明智軍はまもなく総崩れを起こし、後方の勝竜寺城に立て籠もります。


 しかし、このときすでに秀吉軍も満身創痍。崩壊する明智軍の追撃すらままならない状態でしたが、ここでもし総大将が信長なら「勝竜寺城を包囲し、一兵残らず皆殺しにせよ!」と命じたところでしょう。ところが秀吉は、黒田官兵衛の献策もあって、わざと坂本城の方角の包囲を解かせます。もしここで完全包囲、総攻撃を命じていれば、明智軍も死に物狂いで抵抗したでしょう。たとえ目的を達したとしても自軍の損耗も著しかったに違いありません。


 しかし、人間逃げ道があればどうしてもそちらへ心が向くものです。包囲が解かれたことで、明智軍は最後の抵抗の意志が削がれ、わらわらと坂本城方面へ遁走し始め、あっという間に軍は消滅してしまいました。これぞ、孫子のいう「戦わずして勝つ」です。山崎合戦を制した秀吉は、一気に天下人への階段を駆け上ります。

 しかし、秀吉なきあとの豊臣家は、ほどなく徳川によって亡ぼされることになりました。このときの「大坂の陣」でも、この「欠囲の陣」が効果を発揮します。家康はまず「冬の陣」で濠(ほり)を埋めさせましたが、にもかかわらず、「夏の陣」では徳川陣営は包囲体制をとりませんでした。埋めた外濠よりはるか南方に布陣します。


「これでは、せっかく外濠を埋めさせた意味がないのでは?」と思われるかもしれません。しかし、こうして城の北側をガラ空きにしておく(欠囲)ことで、戦況が不利になった途端、城を護るべき将兵たちがわらわらと城を棄てて逃げ出します。ひとたび均衡が破れるや、豊臣陣営が一気に総崩れを起こし、攻城戦すらまともに行われぬまま落城したのは、「冬の陣で濠を埋めておいたから」というより、この「欠囲の陣」の効果が大きいものだったのです。


 こうして、戦国の世は、織田から豊臣を経て、徳川の世へと収束していくことになりました。こうして歴史に鑑みるに。「包囲殲滅」をしかけた織田信長が志半ばでたおれ、「欠囲の陣」を以て臨んだ豊臣秀吉徳川家康に天下が転がりこんでいますから、やはり「欠囲の陣」こそが優れた戦術だということがわかります。「包囲殲滅」は、たとえそこで勝利したとしても結局は身を亡ぼす結果につながるのです。


しかし、だからといって、信長が秀吉より戦術的に劣っていたかというと、そういうことにはなりません。信長は新時代を切り拓く「破壊者」としての歴史的役割を自覚していましたから、彼にはこの方法しかなかったといえます。

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