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イノベーションを生み出す環境づくりは、シリコンバレーよりフィレンツェに学べ | HBR.ORG翻訳マネジメント記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

 世界の次なる偉大なイノベーション・ハブを立ち上げたければ、もっと古くて、はるかに卓越した天才たちの集積地に目を向けるほうが賢明だ。すなわち、ルネサンス期のフィレンツェである。


 このイタリアの都市国家は、偉大な芸術と輝かしいアイデアを爆発的に生み出した。その勢いは過去にもそれ以降にも世界に類を見ない。イノベーションの温床であった彼の地は、500年前もそうであったように、今日でも通用する貴重な教訓を与えてくれる。そのいくつかを以下に示す。

フィレンツェメディチ家による才能発掘の手腕は伝説的であり、その慧眼で選んだ相手に惜しみなく財を投じた。特に、本名よりも「豪華王ロレンツォ」として知られるロレンツォ・デ・メディチがそうだった。


 ある日、ロレンツォがフィレンツェの街を散策していると、年の頃14ほどの少年が目に留まった。彼はローマ神話に登場する半人半山羊ファウヌスの像を彫っている。ロレンツォの目を釘付けにしたのは、少年の才能に加えて、精度にこだわり抜くその姿勢であった。


 ロレンツォはこの若い石工を招いて自分の屋敷に住まわせ、自分の子どもたちと一緒に作業をさせ、学ばせた。それは桁外れの投資だったが、見事に報われることになる。少年の名は、ミケランジェロといった。


メディチ家は無分別に財を注いだのではない。天才の卵を発見した時に、計算されたリスクを取り、気前よく財布の紐を緩めた。現代の都市や組織、そして富裕層はこれと同様のやり方をする必要がある。慈善行為としてではなく、社会共通の利益への投資として賢明な判断の下に、新しい才能に援助すべきである。

 現代の文化では、経験よりも若さのほうが重んじられる傾向がある。そして昔ながらの学び方に従う忍耐力が、次第に失われている。野心溢れる若い起業家は重役室などいらないと考えており、重役たちから教えを受けることなど望まない。


 だが、ルネサンス期のフィレンツェで活躍した発明家たちの経験に照らせば、これは誤りといえる。芸術や文学で不朽の名声を築いた偉人たちの中には、みずからすすんで師の下で苦労を積み、その熟練の技を修得した者もいる。


レオナルド・ダ・ヴィンチは、通常よりもはるかに長い丸10年の間、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房で徒弟奉公した。芸術に優れ、商才にはもっと秀でていたヴェロッキオは、非嫡出子として生まれたこの若き芸術家に目覚めつつある、天賦の才を当然見抜いた。にもかかわらず、他の弟子たちと同じく一番下から始めさせることにこだわり、床掃きやニワトリの籠掃除をさせた(油性の塗料が登場する以前は、ニワトリの卵を使ったテンペラと呼ばれる塗料が一般的だった)。そして徐々に、大きな責任を担わせるようになり、やがてヴェロッキオ自身の作品の一部を描くことさえ許した。


 なぜ、ダ・ヴィンチはこれほど長く徒弟に留まっていたのだろう。その気になれば他での仕事を簡単に見つけられたはずだが、彼は、埃だらけの混沌とした工房で修得する経験を明らかに重んじていたのだ。


 対照的に、現代のメンター制度は、公共部門であれ民間であれ、その多くがリップサービスでしかない。それよりもダ・ヴィンチの時代のように、メンターと被指導者の間に有意義で長期的な関係を培う必要がある。

ローマ教皇ユリウス2世が、システィーナ礼拝堂の天井画の制作者を検討していた時、ミケランジェロはその有力候補ではまったくなかった。メディチ家の後ろ盾のおかげで、ミケランジェロは、フィレンツェだけでなくローマでも彫刻家として名が通ってはいた。だが絵画の経験は小さい作品に限られ、しかもフレスコ画の技法にはほとんど通じていない。それでも教皇は、この不可能とも思える任務に関しては、経験よりも才能と可能性がより重要であると確信していた。そして、彼の正しさは証明された。


 ユリウス2世のその考え方は、現代人といかにかけ離れていることだろうか。私たちは通常、重要な任務を人や会社に任せる時、以前に似たような仕事をした経験を持つ相手を選ぶ。しかしもっとよい方法は、ユリウス2世を見習うことだ。困難な任務を託す相手は、一見最適とは思えなくてもよい。別の分野で卓越した能力を発揮していて、よりイノベーティブなやり方で成功できそうな逸材を選ぶのだ。

 壊滅的な出来事から驚くべき収穫がもたらされる場合があることを、フィレンツェは私たちに思い起こさせてくれる。この地で黒死病が多くの市民の命を奪ってから、わずか数十年後、しかもそれが一因となってルネサンスが花開いたのだ。疫病のあまりの威力によって、固定的な社会秩序が揺るがされることになり、新たに生まれた流動性が芸術と知の革命に直結した。


 古代アテネも同様に、ペルシア人に侵攻された後に繁栄期を迎えた。大混乱期の後には必ずといってよいほど、創造性が呼び起こされる。イノベーターはこの教訓を我がものとすべきであり、常にこう自問する必要がある。「ここからどんなプラスが見出せるだろうか。この災難の只中にあって、どこにチャンスが隠れているだろうか」と。

ルネサンス期のフィレンツェは、競争と確執で溢れていた。当時の2大巨匠、ダ・ヴィンチミケランジェロは仲が悪かったが、そのライバル意識がおそらく原動力となり、ともにあれほど素晴らしい作品を生み出したのだろう。


 ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキの数十年にわたる確執も、同じ効果をもたらした。フィレンツェにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉(「天国への門」)の制作者選考で、ギベルティに敗れたブルネレスキは、ローマへと旅立ちパンテオンなどの古代建築について学ぶ。そこで得た知見をフィレンツェに持ち帰り、同市のシンボルとなる歴史的建造物、ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)を建設した。


フィレンツェ人は、健全な競争には価値があることを理解していた。私たち現代人も同じように、「勝者」と「敗者」の両方が競争から恩恵を得ると認識するのが賢明だろう。

 当時のフィレンツェは民主主義制ではなかったが、指導者たちは新鮮な人材とアイデアを定期的に取り込むことの重要性を認識していた。


 ドゥオーモの丸屋根は、いまではフィレンツェの顔として中心部から街を見下ろしている。当時この部分の建設は、「オペラ・デル・ドゥオーモ」と呼ばれる管理委員会によって監督されていた。その規約では、委員会がどれほどうまく運営されていても、上層部のメンバーは数ヵ月ごとに交代するよう定められていた。創造活動は、現状への満足によってあっという間に、完全に損なわれてしまうことを委員たちは知っていたのだ。


フィレンツェ人(特にメディチ家)は、インスピレーションの源泉として異文化や過去にも目を向けた。古代ギリシャ・ローマの貴重な文献を探し求めて、広くさまざまな地域に使節を派遣した。これは安くはなかった。というのも、たった1点の文献が、現代に換算すると車1台の値段に相当したのだ。したがってすべての取引が慎重に判断され、潜在的価値が入念に検討された。


イノベーションとはアイデアの組み合わせであり、そこには新たな発想もあれば、借り物があっても構わない。そのことをフィレンツェ人は知っていたのである。

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