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江戸期、公家の参内が観光の目玉に 京都御苑、専門家と歩く : 京都新聞

 幕末の地図「掌中雲上抜錦(しょうちゅううんじょうばっきん)」を見ると江戸時代の御所の様子が分かる。御苑は200もの公家屋敷が並ぶ公家町だった。外郭の通り沿いに今の石塁はなく、公家町は京都の町に続いていた。町人や旅人は自由に九門内に入り、公家町の道沿いにある屋敷の築地塀が美観をつくっていた。


 「外側を囲って威厳を持たせるのでなく、人が歩く場をきれいに整備する発想でした」


 公卿門の近くに茶屋があったという。江戸時代には「檜垣(ひがき)茶屋」が立ち、明治時代まで続いた。町民らは茶屋で酒肴(しゅこう)を味わい、参内する公家の異形の行装を楽しんだ。金を払えば御所で天皇即位式や行事も見物できた。江戸前期の明正天皇即位式の屏風(びょうぶ)は、酒を酌み交わす人々や、おおらかに胸をはだけて授乳する女性が描かれている。

 1869年の東京遷都で公家が東京に移住後、公家町跡に「公園」として整備されたのが御苑だ。遷都後の十数年は府が御苑を管轄した。石油灯がともり、画学校や博物館が置かれるなど、御苑は円山公園と並ぶ文明開化の地だった。

御苑が今の姿になるきっかけは明治天皇の京都行幸(1877年)。天皇は御所保存の御沙汰を下し、外郭に石塁が積まれた。6年後、御所は宮内省管轄になり、御所の位置づけは府管轄時代の「公園」から、天皇即位式大嘗祭(だいじょうさい)を行う「大礼の場」に転換する。大正天皇即位式「大正大礼」(1915年)のために建礼門前の通りを拡幅、ウメ、モミなど2千本以上を植栽し、鴨川で採取した砂利を敷きつめ、今の“荘厳な”景観が完成したという。


 「日露戦争後の帝国日本を象徴する儀式が大正大礼。欧米の一等国に肩を並べるために、欧米やアジア諸国とは異なる日本らしさと京都らしさを発信する都市として古都を新たに位置づける国家構想の下、御所はナショナルなイメージに重ねられていきました」