https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

長銀に入ったのは「なんとなく」。いまだに金融の最先端で活躍し続ける理由【長銀OBのいま(9)】|長銀OBのいま|ダイヤモンド・オンライン

 78年、深沢さんは東大経済学部を卒業し、長銀に入社した。当時は評論家の竹内宏氏や日下公人氏が長銀調査部のエコノミストとしてテレビによく出演していた。自行の代弁者ではなく自分の考えを自分の言葉で述べる二人の活躍をみて、自由で闊達な企業風土を感じ取ったこと。そして体育会テニス部の先輩が長銀にいたことが決め手になった。


「正直にいうと、将来何をやったらいいのかわからなかった。わからないから入社した後、『これをやりたい』というものが見つかりそうな会社がいいだろうと思って入行しました。現在の就活生が聞いたら怒り出すような甘い考えですが、人生設計やビジョンの類はなかったので、そういう人間が入ってから何かやりたいことが見つけられる職場ではないかと考えたんです」

 そこで本店の審査部や食品業界の担当部署に行くと「こんなデータがあるからコピーをとっていいよ」と教えてくれ、それらを活用して申請書を書いた。すると今度は先輩や審査役からこれでもかと赤ペンを入れられた。そんなやり取りを行いながら、企業や業界に対する見方を身に付けていった。


「懇切丁寧ではないですが、本店にふらっと行くといろんな引き出しを開けてくれる。長銀にはそんなカルチャーがあったので、きついというよりとても面白かったです。学生時代に勉強をしなかった反動もあって、資料を読み込んだり調べたりが新鮮でした」

ノーベル経済学賞受賞者を多く輩出しているシカゴ大学MBAを選択したのは、当時は理論の講義が主体だったので英語力が十分ではなくても授業についていきやすいと考えたからだ。日本の大学とは異なり学生は休講があればブーイングし、教授の評価もすべて開示されているという「勉強せざるを得ないし、勉強しようと思えばいくらでもできるスチューデント・フレンドリーな環境」に感激しながら深沢さんは勉強に集中し、最先端の金融理論を学んで83年に帰国した。

「84年から半年ほどロンドンでアパートを借りて、ダンロップ社の英、独、仏にわたるタイヤ事業の資産買収をお手伝いしましたが、実際にはこちらが勉強させていただいたというのが本当のところです。そうやって経験を積み重ねたり、長銀が提携していたM&Aブティックと一緒に仕事したりしながらM&Aのノウハウを蓄積していきました」

 バブル期に海外リゾートの買収で名をはせ、長銀と蜜月だったことでも知られたイ・アイ・イ・インターナショナル(EIE)が海外で買収し焦げ付いた案件が深沢さんの仕事の多くを占めた。この時点で長銀はすでにEIEへの支援を打ち切り、担保権者としての権利を行使してリゾート施設やホテル、不動産などを直接管理する立場になっていた。

 97年に山一證券が経営破綻し金融不安が深刻化するなか、98年2月に深沢さんは東京支店営業一部に部長として異動した。この部門の担当企業は長銀が長年取引している上場企業や名門といわれる中堅企業が多く、部員は融資部隊に加え東京支店の事務管理部門も統括していたためおよそ40人が在籍していた。


 異動した時点で、長銀は実質的に融資残高の増額ができない状態に置かれていた。そのため、長銀をメイン行、準メイン行とする企業は「あそこはもう資金繰りがつかないのでは」と信用不安に陥りがちで、そうした企業をフォローするのが深沢さんの重要な仕事だった。

長銀の国有化が決定し、行員は自分の身の振り方を考えざるを得なくなった。

 だが、国有化の翌年の4月に深沢さんは長信銀の雄であった日本興業銀行へ転職した。まごついていたのに比較的早く転職が決定したのは、向こうから声がかかったからだった。


「腑抜けになっていたところに、一緒にM&Aをやっていた長銀の先輩から『興銀が投資銀行業務を拡大するために人を求めているようだ。一緒に話を聞きにいかないか』と誘ってもらったんです。そして私と先輩を含め3人の長銀行員で興銀の投資銀行業務を担当している役員の方と食事をして、『M&Aアドバイザー業務を拡大したいので力になってくれませんか』と言っていただきました。こちらとしては嬉しいですよね」

 転職とは無縁のはずだった深沢さんが2回目の転職をし、東京海上キャピタルへ移ったのは04年4月のことだった。


プライベート・エクイティ・ファンドは対象企業に投資する際、株式の過半を買収し企業価値を高めたあとで売却するので、M&Aアドバイザリーにとって大事なお客様になる。だから深沢さんは東京海上キャピタルとは顧客として付き合いがあった。そして、同社には長銀時代の後輩がおり、そこから誘いがかかったのだ。

 冒頭の問いに戻ろう。深沢さんはなぜ、それぞれの時代における金融の先端的な領域に位置し、活躍することができたのか。


M&Aにしても事業再生にしても自分の意志ではなく、やれと言われてやった仕事なのですが、機会に恵まれ、それを面白がってできたこと。新しい仕事は自分の知恵だけでは全然回りませんが、新しい仕事の周りには優秀で個性的な人がたくさんいて、その人たちに知恵を借りたり丁々発止で議論したりするのを面白がることができ、感化されていった。それが大きかったのかもしれません」

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160406#1459939960
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160405#1459852952