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家康が結局、最後に勝った理由「学習力」が最強の戦略である|戦略は歴史から学べ|ダイヤモンド・オンライン

 信長の次男、信雄と家康が秀吉と対峙した「小牧・長久手の戦い」は、家康が人質を差し出す形で停戦しましたが、翌1585年に秀吉は伊勢に出兵。前年に家康に呼応して反秀吉側で戦った雑賀衆を壊滅させます。3ヵ月後には四国の長宗我部を制圧、5ヵ月後には北陸に大軍を派遣、反秀吉側の佐々成政を攻め、領地の大半を奪います。


 同年11月には、家康の腹心だった石川数正が突如、秀吉側の家臣となる事件が起きるなど、停戦後に電光石火で反勢力を各個撃破、秀吉は自らの基盤をさらに強固にします。


・九州の島津を討伐(1586年7月〜翌年4月)
・家康が秀吉に臣従を誓う(1586年10月)
・小田原、北条氏討伐と秀吉の天下統一(1590年)


北条氏討伐の同年、家康は秀吉の命令で関東に所領が移されます。代々縁の深い三河地方ではなく、家康と家臣団の拠点は関東平野に移動。入り江や沼地が多かった関東平野を開墾し、利水・埋立事業を起こしたことで、今日の東京への基礎がつくられます。

 秀吉は、家康を箱根の向こう側に閉じ込めたと思ったのでしょうが、家康は豊臣側の厳しい監視から離れて開拓を進めて、300万石の収穫を持つ強国に成長させていました。1598年8月、秀吉が死去。その前に二度行われた朝鮮出兵で、出陣した豊臣宿将たちと石田三成などの文官との関係が険悪となり、西日本にいた豊臣大名の勢力も疲弊します。一方、家康は朝鮮出兵では名古屋まで兵を進めて、海を渡りませんでした。


徳川家康が天下を獲れたのには、大きく分けると三つの要素が想定できます。


(1)未開の関東平野に移動して、秀吉の監視から遠く離れて国力を増強できた
(2)朝鮮出兵の無謀さから、渡海を控えて戦力を温存した
(3)1600年、関ヶ原の戦いで徳川VS豊臣ではなく、東軍VS石田三成としたこと


関ヶ原の戦いで、東軍(家康)側には、もと豊臣武将が多数おり、西軍(三成)側は西日本で豊臣が征伐した勢力が主力でした。秀吉の子飼いの武将だった加藤清正福島正則加藤嘉明までが家康側に参加し、石田三成を打倒するため戦ったのです。


 これは、家康が巧みに掲げた戦闘の目標が、三成のものより「多くの人を巻き込む魅力」にあふれていたことを意味します。

 東軍勝利のきっかけの一つは、秀吉の甥である小早川秀秋の裏切りです。石田三成が自軍の結束を固めることができなかった一方で、家康は豊臣家打倒の狙いを、巧妙に三成打倒にすり替えて味方を増やして、勝負したのです。


 戦国時代は不確実の連続です。本能寺の変で信長が死に、百姓の出身である秀吉への臣従も、家康からすれば「完全に想定外」だったはずです。したがって、家康が生き残り天下を手にできたのは、特定の強みよりもむしろ「現実から学習する能力が突出していた」と判断できるのです。


「自分が天下を収めることができたのは、武田信玄石田三成両人のおかげである(我天下を治むる事は、武田信玄と石田治部少両人の御影にて、かようになりし)」(桑田忠親徳川家康名言集』より)


家康は、戦や軍事の手立ては信玄を師として学び、石田三成が謀反を起こしてくれたおかげで、三成を討って天下を手にすることができたと述懐しています。


『学習優位の経営』の著者、名和高司氏は不確実で安定しない時代には「競争優位」ではなく「学習優位」こそが武器となると述べています。実践からフィードバックを得て、その結果から次の手を打つ。これを繰り返しながら、他者よりもどれだけ優れた学びを得るかが勝負となるのです。徳川家康の「学習の力」は、次のような史実からもわかります。


・腹心だった石川数正の裏切りで、徳川の軍事制度を捨て、武田流を新たに採用した
石田三成を殺さず、豊臣側の分裂の道具としたこと
関ヶ原では家康も「秀頼のため」と大義名分を掲げた
・天下を手にしても、質実剛健を徳川家臣団の方針として徹底した


 秀吉の手引きで家臣が裏切り、徳川の軍事機密が漏れたことを機会にして、家康は自身が負けた武田信玄の軍制度を新たに導入しています。また、織田信雄を説得されて戦闘の大義名分を失った過去の経験から、関ヶ原では「豊臣家(秀頼)のために戦う」という旗印を掲げて、豊臣恩顧の武将を味方につけています。

 POSデータを日々の販売予測に活用することで有名なコンビニのセブン−イレブンは、毎日の現場がまさに「学習の場」です。


 売れ筋を把握するだけでなく、新しい企画商品が実際に棚に並んで“売れるか売れないか”を最速で学び反映する仕組みこそ、セブン−イレブンの強さと魅力を際立たせ続ける要因といえるのではないでしょうか。


 現在、全世界で約1000万台超の生産数を誇るトヨタ自動車ですが、同社の強みと言われる「トヨタ生産方式」は、80年代から90年代に研究されて、海外メーカーの多くも同種の知識を採り入れています。にもかかわらず、トヨタは低燃費のハイブリッド・カーで世界を席巻し、最近では燃料電池の新たな技術で車の未来を開拓しています。


 不確実な現代ビジネスでも、目の前の変化から常に学ぶ、飛び抜けた学習優位を誇る経営者と企業こそが最後に天下を獲るのです。

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