講演 「京都から見た明治維新・前半」
— 藤原直哉 (@naoyafujiwara) 2016年4月11日
2016年4月10日 ホテルピアザびわ湖にて
認定NPO日本再生プログラム推進フォーラム理事長 藤原直哉https://t.co/jI3aBXBLqqhttps://t.co/RfrIZyxj3N
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講演 「京都から見た明治維新・後半」
— 藤原直哉 (@naoyafujiwara) 2016年4月11日
2016年4月10日 ホテルピアザびわ湖にて
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祖父の権藤延陵は日田の広瀬淡窓、筑後の笠大匡とともに筑後の三秀才とよばれ、儒者亀井南冥の門下生であり、天保13年(1842年)に華岡青洲に医を学んだ。
二松学舎で漢学を学んだ。
権藤家は代々藩医であったが、長ずるにしたがってもう一方の家学である国学に精進し、学者を歴訪し、また阿蘇神社に伝わる古文書を渉猟した。
1892年、善太郎は24歳で結婚した。この頃、父の権藤直が久留米青年義会を結成し、福岡派(頭山満・平岡浩太郎)、熊本派(宮崎滔天・清藤幸七郎ら)とならんで久留米派と呼ばれた。
黒竜会に参加
1922年には、蘇我氏打倒計画をたて、大化の改新に影響を与えた南淵請安を理想として『南淵書』を発表。この著作は学者からは黙殺されたが、北一輝の『日本改造法案』とともに昭和維新に多大な影響を与えた。
1929年(昭和4年)に麻布台から代々木上原に引越しをし、帝大七生社の四元義隆が下宿したり、また橘孝三郎の紹介で日蓮主義者の井上日召や、のちに血盟団事件に参加する水戸の学生らが出入りした。また、海軍革新派で五・一五事件の実質的指導者であった藤井斉も権藤成卿の『自治民範』(『皇民自治本義』)を絶賛していた。 1929年秋のアメリカ合衆国からはじまる世界恐慌の波は日本でも深刻なものとなり、1930年から翌年にかけて昭和恐慌となり、農村の窮乏(昭和農業恐慌)も問題視された。