なぜベンチャーは優位性を保てなくなるのか?世界大戦から学ぶ不毛な消耗戦の回避法|戦略は歴史から学べ|ダイヤモンド・オンライン
普仏戦争に勝ったプロイセンは、ヴィルヘルム一世を皇帝としてドイツ統一を成し遂げましたが、次の皇帝ヴィルヘルム二世は、名宰相ビスマルクを失脚させて親政を開始。フランス封じ込め政策を軽視し、仏露が軍事同盟(1894年)を結ぶことを許します(ビスマルクはロシア対策としてオーストリアとも軍事同盟を結んでいた)。
普仏戦争で活躍した名将モルトケも一八九一年に世を去り、ドイツの外交と軍事は軽率な失策を重ねながら、次の3点が第一次世界大戦への伏線となっていきます。
(1)ドイツは仏露に挟まれたことで、1905年に参謀総長シュリーフェンが「シュリーフェン・プラン」を作成。フランスを一気に攻略して次にロシアへの対抗を計画
(2)フランスは孤立からの脱却を図り、ロシアとの軍事同盟をさらに強化。どちらかが攻撃を受けた場合、もう一方の国は速やかに宣戦布告をすることにした
(3)イギリスはドイツの軍備拡大(特に海軍)を強く警戒し、100年以上の国是であるフランス敵視を捨て、1904年に英仏協商、1907年に英露協商を締結した
1914年6月、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人の民族運動員に殺害され、同年7月にオーストリアがセルビアに宣戦布告。セルビアの独立を支持していたロシアは、オーストリアの宣戦布告に対して軍に動員令を発令します。
ロシアの動員令に驚いたのが、オーストリアと同盟関係だったドイツです。シュリーフェン・プランは、フランスに電撃的に進軍し、勝利ののちにロシアと対峙する計画でしたが、シュリーフェンのあとに参謀総長となった小モルトケ(あのモルトケの甥)は、ロシアに先手を許せば作戦の前提が消失すると判断。8月1日にドイツ軍に動員命令を下し、同日にロシアへ、3日にはフランスへ宣戦布告します。
ドイツ軍はフランス侵攻のため8月4日に中立国ベルギーへ侵入。この侵犯を理由に同日、イギリスがフランス側でドイツへ宣戦布告。事態は混迷を深めていきます。ビスマルクとモルトケが存命ならば、絶対に防いだ最悪の事態をドイツは招きます。二大国に挟まれて戦闘を開始し、中立国を侵犯して国際社会で大義名分を失ったのです。
ドイツは8月後半にはフランスに侵入する快進撃を続けます。しかし小モルトケが西部戦線の部隊を計画よりも削減したことで、パリから70キロのマルヌ河畔で敵に包囲されてしまい、続くマルヌの会戦でドイツ軍の進撃は阻止されます。
ドイツ軍はマルヌの北40キロのエーヌ川まで後退、塹壕を築き仏軍の側面に回り込んで反撃の機会を窺います。仏軍もドイツの側面に回り込むため陣地を構築し、双方が南北に塹壕を掘り続けてなんと英仏海峡からスイスまでに達します。
1916年2月にドイツが仏軍のヴェルダン要塞を攻撃。両軍で70万人以上の死者を出して戦況は変わらず。同年夏のソンムの戦いでは、初日で英軍は戦死者2万人を含めて6万の兵士が戦闘不能になり(ジャン=ジャック・ベッケール他『仏独共同通史 第一次世界大戦(上)』より)、両軍で100万人以上の死者を出して、仏英側がわずかな地域を占領したに過ぎませんでした。
5月はユトランド沖海戦で、英独の大艦隊が激突するも、一方的な勝利は実現せず。西部戦線は三年近く膠着状態となり、被害を拡大しながら予想外の長期戦となります。
真正面からの競争が、消耗戦になってしまうことはビジネスでもよく起こります。前出の『競争しない競争戦略』では、競争するデメリットが3つあげられています。
(1)顧客志向から競争志向に
(2)価格の必要以上の下落
(3)組織の疲弊
小モルトケは作戦失敗を悟り辞任、後任のファルケンファインは西部戦線の膠着をみて全面勝利を捨て、長期戦で相手国に厭戦空気を蔓延させることを狙います。これはビジネスで先行者の立場を固め、追従する企業へ「同質化戦略」を取ることに似ています。一点突破させずにライバル企業を消耗させ、撤退させることが狙いなのです。
ドイツは敵国の領内で塹壕をつくり西部戦線を構築したので、戦線を突破させず両軍が消耗すれば、先行者利益を守り切れると考えました。逆に仏英連合軍は、先行者が築いた塹壕を突破する優位性をどこかでつくり出さなければなりません。『競争しない競争戦略』では、競争を避ける競争戦略を3つ提示しています。
(1)棲み分け(A:ニッチ戦略か、B:不協和戦略)
(2)共生(C:協調戦略)
ビジネスで「棲み分け」を狙うことは多いものです。しかし西部戦線は興味深いことを私たちに教えています。「棲み分け」の均衡も、有利な場合と不利な場合があることです。
・棲み分けできても大企業が優位な均衡は、挑戦する下位企業には「消耗戦」となる
・下位企業が大手に侵食されない形で均衡を保つとき「健全な棲み分け」となる
ドイツは先行者優位によりフランスを押し切ろうとして完遂できず、均衡状態からの「消耗戦」を狙いました。しかしフランスには英米の援護があり、ドイツは一時的に均衡を保ったつもりでも、相手の優位が増すと、消耗戦を仕掛けられる立場になり敗北したのです。