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» 2016年4月末を持って「次」へと移る世界。 (連載「パックス・ジャポニカ」への道) | IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所

しばしば私が聞かれることが一つある。「結局のところ、何を分析しているのですか」という問いである。

それでもなお西洋諸科学の研究者たちがなぜ「再現性」に拘るのかといえば、先ほど述べた“センス”を残念ながら持ち合わせないからなのである。要するに嫉妬からそう主張しているに過ぎないのであって、“センス”を持ち合わせている方々は邂逅の瞬間から分かり合えるのとは大違いなのである。


この様にいうと「神がかり」という声が聞こえそうだ。正直申し上げるならば、今から14年前までの私もそうだった。当時の私が書いた論文や書籍を読んで頂ければお分かり頂けるとおり、私にとって絶対的であったのは人類に普遍に宿っているはずの「理性」なのであって、それが徐々に世界において顕現(reveal)していく過程こそが世界史なのだと信じてやまなかったのである。あるいはドイツ留学中に貪り読んだヘーゲルの史観が脳裏に刻み込まれすぎていたのかもしれない。

だが、私はどうしても違和感を拭えなかったのである。世界史において余りにも根元的な部分を担っている人脈との邂逅が、結局、14年前から隠すことの出来なくなった「違和感」の根源であったわけであるが、そのレヴェル感からするとたかだか「議員バッジ」をつけることにそのタイミングで邁進することなど、無意味に思えて仕方が無かったのである。実際、その後、「選良」であるはずの議員諸兄が余りにも下らないスキャンダルで次々に失脚していくのを見ると、そこでの直観は正しかったのだと思うわけだ。

それでは己のやるべきこと、進むべき道のりがはっきりと分かっていたのかというとこれまたひどく心もとなかったことも事実なのである。だが、繰り返しになるが14年前に起きたある出来事によって刻印された、世界史そのものを担う人々のレヴェル感というか、深さというか、包括性というか、そういったものからするとまだまだ己は卑小であって、為すべき修業は多々あると直感的に思ったわけなのだ。私が外務省を自主退職した後、一体何をしてきたのかといえば、こうした意味での「直感」だけを頼りに真っ直ぐに突き進んで来たに過ぎない。

その間、私は実に様々なことを問わず語りで学んできた。―――世界、いや森羅万象は根底においてたった一つの原理で動き続けているということ。そのことを自覚し、それと符合して動く者たちののみ未来は切り開かれるということ。そうした者たちは決して己を喧伝することなく、「よく隠れし者、よく生きたり(Bene qui latuit ,vene vixit)」なのであって、その言葉は必ず、そう”必ず“、必要な人物に必要なタイミングで届くようになっているということ。そうした原理で動いている世界の基層は普段、表に出ることはなく、正に「昼行燈」とでもいうべき生活を送っていること。しかし一たび「時代精神=龍」の節目がおとずれるとなると、一気に動き始め、他が圧倒され、呆然とする中、瞬く間に次の「構造」としての「担い手」を決めてしまうということ。そしてその「担い手」足り得るためには、一体何を己に課して為し続けなければならないのかということ。さらには、そうした「担い手」であることの証として根元的な勢力から分け与えられる”お金“と、それ以外の普通に流布されいてる”お金“の二種類が通貨にはあるということ―――。


これらのことについて気付かせて下さった方々とは別に、無数の人物がこれまで私の人生の道のりにおいてクロス・オーバーしてきたことも今、あらためて思い出す。そしてある種の方々は正にこうした「意味」に肉迫しており、次の“担い手”であらんともがき続けていた。だが、どうしても彼・彼女らはそうはならないのである。なぜならば根本において彼・彼女らを動かしているものが我執だからだが。そして実に不思議なもので、そうした我執がその心の中に根付いている限りにおいて、件の「時代精神=龍」は彼・彼女らの前に本当の意味で姿を現すことはないのである。そしてそれを体現している根底的な勢力もまた、直接姿を目の前に現さないのだ。その代りに出て来るのは、それらからすれば余りにもレヴェルの低い事共、者たちばかりなのである。そしてそれはなぜなのかといえば理由はただ一つなのであって、「我執」が故なのである。残念だが、致し方が無い。これだけは、ご自身が気付かない限り、何も変わらないのである。いや、永遠に変わらないような気もする。

「人を見るのではない。天だけを見つめよ」

未来は予測できないと堂々と述べる者たちがいるがそれは決定的に間違っている。未来は考えるものではなく、件の”センス“をもって感じるものなのであり、かつそれは窮極において他者との交わりという意味での「社会」とは無関係なのであって、己が果たすべき役割は何なのかという点について「時代精神=龍」との普段の会話によってだけ、紡ぎ出されるべきものなのだ。そしてその限りにおいて、未来は必ず現実になる。なぜならば”センス“をもって感じるのが自分ならば、それに誘われてひたすら真っ直ぐに突き進むのも自分だからだ。至極簡単なことだ。他に何も要らない。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160422#1461321493