バーンスタインの子供オケのリハーサルはお話でみんなを本気にさせるところがあった。これもあってよい事でしょう、テクニックとして。でも「ブラームスは・・・」「シューマンは・・・」という熱弁はリハだけで聴かれ、本番の演奏を耳にする聴衆は音楽だけを受け止めるわけ^^ 本気で弾くかだけの話
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年5月5日
ある楽曲(パガニーニ・ヴァリエーションでも何でもいい)があるとき、そこに表現されている音そのものの振る舞い・・・どのように記され、どのように響く可能性があるか。そこに音自体から直接もたらされるどのような詩情が可能か、どのような驚き見出せるか・・・を直接まっすぐに問うという姿勢。
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年5月5日
履修者向けに最後に一つ。だから「方法」を教わって何か捏造しようなんて発想は全部捨て去って、その先に本当のスタートラインがある。「勘がいいかどうか、それだけです」と池内友次郎は松村に言った、と松村に中学生時代に言われたが、まさにそうだと思う。俳句をひねるのに「俳句概論」は有効か?
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年5月5日
近年のラフマニノフ演奏の多くは美音、旋律を浮き立たせ2度で当たってるキツイ音など背景にぼかすメロウな響き作りをよく耳にする。それは大変な努力の結果得られるとも思うのでそれなりに価値と思うが、でもラフマ本人やホロヴィッツの2度ぶつかりまくったある狂気を感じさせる演奏には到底及ばない
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年5月5日
意味のあることを考えない時間を一日のうち数時間持つこと。常にあたまのなかに、無定形の新しい音楽への衝動をまわしつづけていること。そのうえで楽器や譜面に向かうと、別の客観化が可能なわけで そういう本来のファームが見えなくなってしまうと音楽はカスカスの乾燥肌みたいになってしまう^^;
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年5月5日