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根っからの「傍流・辺境の人」がコンサルタントになるまで|ボストン コンサルティング グループシニア・パートナー&マネージング・ディレクター 御立尚資|ダイヤモンド・オンライン

 恥ずかしながら、私の人生はいつも「普通の道」からちょっと外れることの繰り返しだった。普通ならこうするのが望ましい、という道を希望したら、必ずといっていいほど、そうならない。そのうち、保守本流的なものが苦手になりどちらかと言えばアウトサイダー側を好むようになった。


 そんな人間が、コンサルタントという「保守本流的なリーダー」の皆さんを支える仕事を生業にし、気がついてみると23年もの時がたっている。自分が本流に立つのではなく、少し外から手助けをするという仕事だ。さまざまな偶然が重なって、予想もしなかった長期間、コンサルタントであり続けたのは、これが案外、自分らしい仕事だったからかもしれない。


 さらに言えば、BCGに入る以前に、本社や役員フロアではなく現場にこそ真実がある、ということを学ぶ「運」に恵まれた。このことが、留学やコンサルタントとしての仕事にも随分役立ってきた。


 振り返ると、どうやら、「中心ではなく周辺にこそ自分らしさがある」という隠れた通奏低音に導かれて、ここまでの人生を送ってきたようでもある。

 音楽で食べていけないとなると、たちまち進路に悩むことになる。当時通っていたのは京都大学の文学部。文学部を選んだ最大の理由は、中学、高校とお世話になったクラブ顧問の先生から、「悪いことは言わないから御立はサラリーマンになるな。上司と大喧嘩する。下手したら殴って辞めるだけだ」と諭されて、それもそうだと妙に納得し、就職に向いた経済学部や法学部ではなく、大学に残る道を考えて文学部を選んだのだ。もう少し物理が得意だったら、理学部に行ったかもしれない。


 当時の京大アメリカ文学科は、アメリカ文学を読むのに、まず必修科目としてラテン語を学ぶといった、超伝統的な学風だったのだが、私の卒論のテーマはカート・ヴォネガット。今でこそ、村上春樹が影響を受けたこともあって、きちんとした文学として扱われているが、当時は早川書房から出た翻訳がSFの棚に置かれる「評価の定まらないマイナー作家」だと考えられていた。バンド活動が忙しく、あまり学校に行っていなかった上に、こういう作家を選ぶ、ということで、教授にもあまり良い顔をされず、大学院に進学し、研究者になるなどというのは、ありえない感じになってしまった。

 そんな中で、音楽関係ということもあって紹介してくださった方があった(エピックソニーという子会社を作るための)CBSソニーの募集に応募した。約6000人の応募者に合格者は3人という超難関で、強運もあったのか採用通知をもらった。


 ところが、内定すると人事部の人から「お前は国立大学卒だから、現場を数年やったら人事か経営企画に上げてやるよ」と言われる。若気の至りで、誠にお恥ずかしい限りだが、「上げてやるよ」という表現にカチンと来てしまった。そもそも音楽の現場にいたくて希望した会社なのに、それができないのでは入社しても意味がない。そう考えて、折角の内定を断ってしまった。

 もう1社、指定校指定学部制度のない会社に日本航空JAL)があった。ここも受けてみることにしたのだが、文学部には情報もなく、どうしていいのかわからない。別の学部から前年に入社した先輩に聞くと「実質的な選考はとっくに始まっていて、ほぼ決着がついている。とにかく正式な解禁日の明日、大阪支店に行け」といわれて、大慌てで現地に向かった次第。これまた、運だけは良く、何回かの面接を経て、無事に入れることになった。

 入社してみると、航空会社の現場ではまったく違和感を感じず、実に多くのことを学ばせてもらった。


 まず1年目は大阪空港に配属され、ボーディングパスをもぎったり、沖縄便が着いたらお土産のパイナップル800個を降ろしたり、といった現場そのものの仕事に就いた。座席の供給量よりお客様が圧倒的に多く、空席待ちのハンドリングを間違えたりすると、殺気立ったその筋の人に殴られかねない、という時代だった。空港の現場の仕事は、一人一人の実力がはっきり見える。


 力のある人が統括している便は、時間通りに出発し、お客様の満足度も高い。実力がなければ、すぐに遅延しそうになり、周囲に大変な迷惑をかけることになる。力のあるなしは、学歴にはまったく無関係だということも思い知った。


 2年目にはアシスタントパーサーの辞令が出た。機内でカクテルを作ったり、肉を焼いたりといったサービスにつく訳だ。DC8という小さめの飛行機の便では、素人同然なのにエコノミークラスのサービスの統括をせざるを得ない。これまた、経験と実力に裏打ちされたキャビンアテンダントの現場力のすごさに感心させられ、頭を下げて仕事を教えてもらう場面が多かった。


 第一次イラン・イラク戦争(1980年)の時には、アンカラまでの日本人レスキュー便に乗ったりもしたが、シナリオのないイレギュラーな便になればなるほど現場育ちの優秀な人たちの貢献が光るということを目の当たりにした。


 その次の職場は、パイロットの人たちの搭乗スケジュールなどを調整する部門。ここでもまったく違った職種の現場実態を見ることができた。


 航空会社は一見華やかで格好良く見えるが、実は巨大な現場オペレーションの集積で成り立っている地味な会社だ。整備、パイロット、キャビンアテンダント、空港、予約・発券等々、世界中に人と機能が分散している。それらが有機的につながり、きちんとコーディネートされて、初めて円滑なオペレーションが成立する。


 本社で作る計画には、理屈は正しいが現場オペレーション上成立しない、といった類のものもあった。意味のある戦略や計画を作るためには、現場、それも複数の現場を深く理解していることが不可欠で、それなしでは絵に描いた餅になってしまうだけ。そういうことを、20代のうちに、肌感覚として身につけることができたのは、本当にありがたかった。この感覚はコンサルタントになってからも常に私の根っこにあり、折にふれて、立ち戻るところとなった。


 その後、海外勤務の順番が回ってくる。人事の担当者から「君の場合はロンドン、パリ、フランクフルト、ローマ、メキシコの可能性があります」と言われたのだが、つい「メキシコ以外ならどこでもいいです」と答えてしまった。今から思えば、少なくともその当時は、若手サラリーマンが赴任場所をえり好みするなど、もっともやってはいけないことだったのだろう。ヨーロッパ先進国のどこでもなく、メキシコシティ駐在の辞令が出た。


 メキシコには総務部門のアシスタントマネジャーとして、84年から86年までの2年間赴任したのだが、その間に何度かびっくりするような経験をした。

 当初は、同期が何人もヨーロッパ各都市に赴任する中、「どうして自分はメキシコシティなんだろう」と思ったりもしていたが、こういう経験をするうちに、メキシコが実に好きになり、人生観の重要な一部分もここで形成されたと思う。今でも自分の血の3分の1ぐらいはラテン系になってしまったのではないかと感じることがある。

 さて、一般的な価値観から言えば傍流、という途上国駐在を経て、次に配属されたのは、本流中の本流である本社の経営企画部だった。当時は、自分が辺境寄りのタイプであることをまだあまり意識しておらず、ようやくこういう機会が回ってきたと、勇んで仕事に就いた。


 担当したのは、海外便の路線・便数計画。結果的には、留学を挟んで、6年も同じ仕事をすることになったのだが、当初ペアを組んでいた先輩が転勤した後、こと路線便数に関しては事務方のリーダー格になってしまった。


 当時、BCGをはじめ、コンサルティング会社を使うこともあり、今とは逆のクライアント側としてBCGと協業することになった。この時、あるコンサルタントが言った一言が、ものすごく印象に残っている。


 路線便数計画担当、収入計画担当、コスト計画担当、の3人のリーダー格が、たまたま3人とも文学部出身だった。これを聞いたコンサルタントが「へー、変わった会社ですね。文学部卒の人が計画を仕切っているんだ」とのたまわったのだ。多分悪気はなかったのだろうが、心の中にあったコンプレックスにいたく響いたのを覚えている。


 これも今考えれば、勘違いそのものだったのだが、「経済学部や法学部で学んだ同僚たちは、学生の時から経営の勉強をしてきているに違いない。文学部卒が本社で経営企画の仕事をすると、きっと足りない知識が多いはずだ」と思い込んでいた。きちんと勉強した例外的な方々には申し訳ないが、当時のほとんどの大学生は、学部でそんな勉強をしていたはずがないのに、だ。


 自分自身、現場経験とOJTで教えてもらったことをベースに、やるべき仕事をしている、という自負はあったが、どこかで自信がなかったのだろう。なにせ、採用時に面接はなんとかしのいだものの、その後受けさせられた筆記試験で経済や法律の問題がちんぷんかんぷんで、鉛筆を転がして択一式の部分だけ答えた身だったので。


「きちんと経営の勉強をしてみようか」。そういう気になって、海外留学制度に応募することを決意した。

日本航空には2年に1回、2人ずつを海外留学に派遣する制度があった。「きちんと経営を勉強してみたい」と決意し応募したのだが、一度目はあえなく落選。2回目の時、「御立はもう受けないよね」と人事に言われたが、「やっぱり受けます」と挑戦したら今度は合格。本当にスムーズに事が運んだことがない人生だ。


ハーバード大学MBA留学したのは33歳のときで、20代半ばが多い同級生たちからすればかなりの“おっさん”だ。よく知られているようにハーバード大MBAでは、90分の授業の中で発言できないことが続けば、落第してしまう。アメリカ文学科卒とは言え、英語圏で暮らすのは初めてで相当緊張した。


 この時、救われたのは周囲の学生、特に米国人がフェアなこと。へたくそな英語で発言すると、じっくりと聞いてくれる。たまたま勤務経験は長かったので、現場体験をベースにした違った視点での面白いことを言う奴、という風に見られたのだろう。そのうち、手を上げなくても、教師や学生が、わざわざ発言の機会を設けてくれたりするようになった。勉強すること自体も面白くなってくる。生まれて初めてのことだった。


 こうして、晴れてMBAを取得して帰国するタイミングで、また元の経営企画部門に戻ることになった。経営の勉強をした後は、小さな子会社に出て、ナンバー2として実際に経営の経験を積む。そんな話をしていたのだが、原油価格の高騰などがあり、会社が大きな赤字を出して、経営立て直し計画を作ることになり、企画経験者が必要なので戻されてしまったのだ。


 もともと担当していた仕事なので、ある程度余裕も出てくるのだが、なぜかこれが居心地が悪い。ちょうど管理職適齢期になり、「ある程度コースに乗ったらリスクをとらず、喧嘩などせずにうまくやっていけ」という無言のメッセージがひしひしと伝わって来る。こちらは、現場育ちで辺境寄りであることを自覚するようになってきていて、どうも具合が悪い。


 こういう期待値があるのに、ときどき大喧嘩をやらかしたりするのが、私なのだ。今となっては申し訳ないのだが、路線に関わる会議の時には怒りに任せて、先輩に分厚いファイルを投げつけたこともある。当時、JALはウィーンには就航していなかった。その時点では、採算が合わない路線だったからだ。


 だが、「文化都市だし、都市外交上も重要な都市だから飛ばすべきだ」と言う自説を繰り返す先輩がいた。現場が血のにじむような努力をして、収益改善をしている中で、飛ばせば赤字になる路線を開設するなどというのは、絶対に受け入れられない話だった。言葉のあやだろうが、議論の中で、霞が関もそれを望んでいるはず、というようなことも言う。


 こちらは、完全に頭にきてしまい、つい、ファイルを投げつけてしまったのだ。当の先輩をはじめ、会議に参加している本社スタッフは皆凍りついている。ああ、やってしまった、と反省しつつ、どこか冷静に「やっぱり中高時代の恩師が言ったとおりになったな」と思っていたのを思い出す。


 そうこうしているうちに、立て直し計画も実行フェーズに入るのだが、こちらが考えた現場実態も踏まえた部分ではなく、労組等との衝突がなさそうな、やりやすそうなコスト削減策だけが先行していく。


 ちょうどその時期に、親しかった先輩や後輩が複数続けて亡くなる、ということもあった。人生はいつまで続くかわからないのに、こういう居心地の悪さ、自分らしさとはどうも違うあり方を求められ場所にいるのは、いかがなものか。こう考えるようになって、ついに転職を決意した。36歳の時だ。早期退職制度に手を上げ、さらに追加でなんとかお金を工面して、留学費用を返済して、BCGに移ることになった。

 今一度、人生を振り返ると、自分が望んで入れた学校はハーバードMBAだけで、他は幼稚園以来、第一志望校に入れたことは一度もなかった。


 仲の良かった女の子と一緒に近所の幼稚園に入るものだと思っていたが、家が引っ越して違う幼稚園になった。神戸大学付属小学校に行くのだと言われ、受験したのだが、父親が珍しく寝坊して、遅刻。抽選時間の最後に飛び込んだらしいが、残り物に福はなかった。結果的に、小学校は越境して大阪市内の繁華街の中にある曽根崎小学校に通うこととなった。


 中学校も越境のまま大阪に通う予定だったのだが、突然「越境入学禁止」に。受験することになり、あわてて塾通いを始めた。


兵庫県の私立中学は、全国区の灘、甲陽(こうよう)がトップクラス。その甲陽学院を受けることにし、受験直前の年末年始には、縁起を担いで家族で有馬温泉の兵衛向陽(こうよう)閣に家族で泊まった。ところが、元日に合格祈願を兼ねて、初詣に行こうとしたら、下駄履きだったせいか宿の前の坂道で滑り、すてーんところんでしまった。


 親がまたすごくて、「縁起が悪いから甲陽学院は受けるな」と断言、次のランクである六甲学院に行くことになってしまった。後から考えると、自分にとってはものすごく価値のある学校だったけれど。


 実は大学受験の時も、第一志望は同志社大学だったが、見事に不合格。運の良さを発揮して京都大学に入ったものの、小学校に引き続き、大学でも自分が落ちたところに妹がストレートに入るというトラックレコードができてしまった。いまでも、妹には少し頭が上がらない。


 就職の顛末は先に書いたとおりだが、まあ実に希望通りにならない生き方だと思う。ただ後悔はまったくない。河合隼雄先生(心理学者 元文化庁長官)が、「辻褄の合う人生のお話を自分で創れる人は、自分の人生に納得感を持つことができる」という意味のことを書いておられた。振り返ってみると、人生のストーリーの辻褄は合っている、と自分で思えるのが大事だ、ということだろう。精神的に不調になった方も、自分で人生のストーリーを見つけることができれば、立ち直れるらしい。


 私自身の例で言えば、保守本流を選ばない・選べないが、それが自分らしいと思えるようになってきた。若い友人に人生観を聞かれたりすると「希望するが、予定しない」と答えている。こうなれば良いな、と目標は持つものの、人生には予想していなかった流れが来るのが普通。その流れをつかみ、流れにのっていくためには、先のことをがちがちに予定したりはしない。こういう感覚だ。


 正直苦手なのは、夢や目標に日付を入れ、計画通りに実現しようとする考え方。私には合わない人生観だ。人生には、必然と偶然があり、偶然に見えることに導かれて自分にとっての必然の方に近づいて行く。そうした方が、事前に想像できなかった所にチャンスが広がっていく。こう思うのだ。


 私が一番好きな本のひとつに、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』という小説がある。羊飼いの少年が偶然に導かれて旅に出て、成長をとげる。最後に気がついたら自分が求めていたものは最初に出発した所にあったというビルドゥングスロマン(青年の精神的成長を題材にした小説)である。どこか先が見えない部分がある旅のなかでこそ人は育つように思える。


自分らしく成長していくためには、偶然の囁きに耳を貸さないといけない。同志社に落ちたから京大に入れ、バンド仲間が広がり、CBSソニーの内定を断ったら、日本航空で現場と経営企画の両方を経験できた。これが、経営を学ぼうという気持ちにつながり、コンサルタントになることとなった。こういった流れは、偶然の導きだったとしか思えない。


 さて、コンサルタントとしてはどう過ごしてきたのか。そのあたりについては次回以降にまとめていこうと思う。