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「4連覇のカギは何か」。オリンピックの試合までおよそ1か月となった先月中旬。私たちは吉田選手へのインタビューで質問しました。吉田選手は間髪入れずに「心が一番、勝敗を左右する」と答えました。「魔物が住むのは自分の心。大舞台で勝ちとってやるという強い気持ちを持って戦えた選手が絶対、優勝すると思うので、心を強く持って戦いたい」と、「心」という言葉を繰り返し強調しました。

取り組んだのは、高速タックルとは異なる、スピードに頼らないタックルです。相手と組み合って横に回り込み、体勢を崩してから倒します。相手との距離を近くすることで、スピードがなくても倒せるといいます。体力的な衰えをカバーするための「進化」とも言える取り組み。16年間、指導するレスリング日本代表の栄和人チームリーダーは「スピードは落ちているので逆にスピード勝負しなければいい。高速タックルを捨てるというか、封印して違う方法をやるということ」と、その狙いを話していました。吉田選手は「すごく研究されているので変化は大事。衰えはありつつも一生懸命頑張るという気持ちでやっている」と変化を恐れない姿勢を強調しました。

個人戦の敗戦はおよそ15年ぶりというまさかの結末に、現場にいた私たち報道陣だけでなく、関係者の多くも衝撃を受けていました。「負ける」ということについて吉田選手は以前、「負けた時の自分を想像したくない。周りにも気を遣わせるので、それが一番いやで、そういう雰囲気には絶対なりたくない」と語っていました。負けに対する恐れが大きいからこそ、人一倍の勝利への執念が生まれ、誰も成し遂げられないような記録を生み出していると感じましたが、今回ばかりは「負けられない」という思いが涙の銀メダルという結果に影響していたのかもしれません。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160415#1460718476(「機先を制する、ということも大切だが、後の先というのもある。相撲を見ても分かる。このコツを知る者が勝つのだ」)

『相撲求道録』

P133

わたくしはそういうさいには、含蓄のふかい先生のお話に、つとめて耳をかたむけるよう心がけてきました。御自身がそれを意識していられたか、どうかはわかりませんが、先生もわたくしのために、なにくれとなく、よいお話をしてくだされ、酒席でのそれでも、なんとなく体にしみいるような感じでありました。先生のお話によって、人間として・力士としての心構えのうえに影響をこうむったことは少なくなく、こころの悩みもおのずから開けてゆく思いを禁じえなかったのです。
 先生にうかがったお話のなかに、中国の『荘子』や『列子』などいう古典にでてくる寓話「木鶏の話」というのがあって、それは修行中のわたしの魂につよく印象づけられたものですが、承ったその話というのは、だいたいつぎのような物語なのです。――


 「そのむかし、闘鶏飼いの名人に紀渻子という男があったが、あるとき、さる王に頼まれて、その鶏を飼うことになった。十日ほどして王が、
   “もう使えるか”
 ときくと、彼は、
   “空威張りの最中で駄目です。”
 という。さらに十日もたって督促すると、彼は、
   “まだ駄目です、敵の声や姿に昂奮します”
 と答える。それからまた十日すぎて、三たびめの催促をうけたが、彼は、
   “まだまだ駄目です。敵をみると何を此奴がと見下すところがあります”
 といって、容易に頭をたてに振らない。それからさらに十日たって、彼はようやく、つぎのように告げて、王の鶏が闘鶏として完成の域に達したことを肯定したというのである。
 ――
   “どうにかよろしい。いかなる敵にも無心です。ちょっとみると、木鶏(木で作った鶏)のようです。徳が充実しました。まさに天下無敵です”」


 これはかねて勝負の世界に生きるわたくしにとっては、実に得がたい教訓でありました。わたくしも心ひそかに、この物語にある「木鶏」のようにありたい―その境地にいくらかでも近づきたいと心がけましたが、それはわたしどもにとって、実に容易ならぬことで、ついに「木鶏」の域にいたることができず、まことにお恥ずかしいかぎりです。
<中略>
「イマダ モツケイタリエズ フタバ」
と打電しましたのは、当時のわたくしの偽りない心情の告白でありました。

双葉山定次 - Wikipedia

5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、これが元で右目が半失明状態になった

海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で右手の小指に重傷を負った

双葉山が連勝記録を更新し続ける中で、出羽海一門では「打倒双葉」を合言葉に、笠置山を作戦本部長として毎日、双葉山に対する戦略・戦術を練った。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えた。

双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。


双葉山は、その日の夜に師と仰ぐ安岡正篤に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。その日、双葉山は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝を阻止された当日の夜だったことで、急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。


一方、安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、心ここにあらずという表情だった」という。この後安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋に力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わって支度部屋に引き上げた(現在ならインタビュールームでアナウンサーから殊勲インタビューを受け、支度部屋では大勢の記者に囲まれる)。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山に勝った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれもみくしゃにされた。そのため部屋へほんの数分で帰れる時間を1時間以上もかかってしまい、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は中耳炎で入院中)の言葉だとの説もある。当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。

連勝が69で止まった双葉山だが、これ以降はすぐ気持ちを入れ替えてまた新しい連勝記録が始まるものだろうと誰もが思っていた。しかし、翌5日目に両國、6日目に鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ玉ノ海に敗れて4敗を喫した(最終的には9勝4敗)。その姿は小説家の吉屋信子に「まるで負けるのを楽しんでるみたい」と評され、当人は「動揺するまいと身構えたところに気付かぬ動揺があったのだろう」と語っている。


続く1939年5月場所も危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝で復活を遂げる。12日目での優勝決定は15日制での最速記録でもある。 1936年1月場所玉錦からこの場所の双葉山までは、8枚の全勝額が並ぶことになった(そのうち6枚が双葉山、残り2枚は玉錦と出羽湊の各1枚)。1940年1月場所も初日から連勝を続け、11日目に西前頭筆頭の五ツ嶋に叩き込みで敗れ30連勝を阻止されたが、この1敗だけの14勝1敗で連続優勝。全勝でない優勝はこれが初めてだった。

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 安岡正篤先生から、わたくしの現役時代に、次のような御自作の漢詩二つを、相前後して頂戴したことがあります。過褒あたらず、衷心より恐縮にたえなかった次第ですが、これというのも偏に、わたくしの志を鞭撻しようとの思召しから出ずるもので、今日なお感激の念いを禁じえないところです。


  万千鑽仰独深沈  万千の鑽仰ひとり深沈 
  柳緑花紅未惹心  柳緑花紅いまだ心を惹かず 
  胸裏更無存他意  胸裏さらに他意の存するなし 
  一腔熱血報知音  一腔の熱血知音に報ず
  百戦勝来猶未奇  百戦勝ちて来つてなほ未だ奇とせず
  如今喜得木雞姿  如今喜び得たり木雞の姿
  誰知千喚万呼裡  誰か知らん千喚万呼の裡
  独想悠々濯足時  独り想ふ悠々足を濯ふの時


 わたしが昭和十四年の一月場所で安芸ノ海に敗れましたとき、酒井忠正氏と一夕をともにする機会にめぐまれ、北海道巡業中にとった十六ミリ映画をお目にかけたりなどして、静かなひとときを過ごすことができました。氏はその夜のわたくしを、「明鏡止水、淡々たる態度をみせた...」(酒井忠正氏著『相撲随筆』)云々と形容しておられますけれども、当のわたしにしてみれば、なかなかもってそれどころではありません。「木鶏」たらんと努力してきたことは事実だとしても、現実には容易に「木鶏」たりえない自分であることを、自証せざるを得なかったのです。かねてわたしの友人であり、また安岡先生の門下である神戸の中谷清一氏や四国の竹葉秀雄氏にあてて、


 「イマダ モッケイタリエズ フタバ」


 と打電しましたのは、当時のわたくしの偽りない心情の告白でありました。わたくしのこの電報はただちに中谷氏によって取次がれたものとみえて、外遊途上にあらわれた安岡先生のお手もとにもとどいた由、船のボーイは電文の意味がよく呑みこめないので、
 「誤りがあるのではないだろうか」
と訝りながら、先生にお届けしたところ、先生は一読して、
 「いや、これでよい」
といって肯かれたということを、後になって伝えきいたような次第です。

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