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日本人がキリスト教を拒んだ理由 佐藤優氏が解説 - ライブドアニュース

<「あなたは」司祭(注・ロドリゴ)は泣くような声で言った。「祈るべきだったのに」

「あの人たちは、地上の苦しみの代りに永遠の悦びをえるでしょう」


「誤魔化してはならぬ」フェレイラは静かに答えた。「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」


「私の弱さ」司祭は首をふったが自信がなかった。「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」


「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」


フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。


「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」


結局、ロドリゴはフェレイラの説得に心を動かされて、「踏み絵」を踏んで、棄教する。

「私の弱さ」=同調圧力に負けること

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CiNii 図書 - 神仙の寵児

CiNii 図書 - 神仙の寵児

神仙の寵児 全8巻|国書刊行会
Amazon.co.jp: 神仙の寵児 (全8巻): 笹目 恒雄: 本

モンゴル神仙邂逅記 (徳間書店): 1991|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

モンゴル神仙邂逅記 : 笹目 秀和 : 本 : その他 : Amazon.co.jp
K大師からのメッセージ:モンゴル神仙邂逅記

リョリンライ仙師は笹目氏に次のような厳しいことを言った。
『これから先、汝は、我執からくる望みは一切捨てて、天の使命に生きねばならない。しかし天命どおりに生きたからといって、順調に事が運ぶわけではない。魔障の妨害を受け、人々にはそしられ、裏切られ、悲惨なまでに破壊されて、煉獄のような中を歩み続けるであろう。それによって汝は鍛えられ、成長していく。といっても人間には自由意志がある。自分の進む道は自分で選ぶ自由がある。だから我が言うたからといって、あえてこの苦難の道を行かなくてもよい。別の道を選ぶこともできる。
 もう一つの道は安易で、楽ができる。そちらを選べば、汝は安楽と富と名声を手に入れ、世間的な成功を収める。が、短命である。そしてまたふたたび転生してきて、使命を果たさねばならなくなる。けれども、もし今生においてこの煉獄の六十年を生き抜けば、無限の栄光が汝の頭上に輝き、神とともに坐して活動できるときが到来する。どうじゃ!』(P58)


『汝の人生は尽くしても尽くしても踏みにじられ、裏切られ、背かれる。これからの六十年は、精神的にも肉体的にも苦行の連続である。それも並大抵の苦行ではない。しかしこれに耐えられれば成道し、光明輝く人間となるであろう。それを楽しみにして努め励むがよい。』(P54)

リョリンライ仙人との出会いから12年後、笹目氏は二人目の神仙、シュロ神仙(500)に会い、ある修行法を授かる。これからふりかかる数々の苦難を乗り越えるために必要な修行法であるが、シュロ神仙は次のように言うと大声で笑った。。
『では、これの実践によって、魔障やもろもろの苦労から解放されるかというと、そうではない。反対にいっそうたいへんになる。どうだ、耐えられるか』(P253)


『汝の場合は、俗世間で修行することが、神意にかなう道なのだ。その道は、常に世のため人のために尽くしながらも、尽くしたその世間に裏切られ、尽くしたその人のためにそしられる。ほとほと世の中も人間も何もかもいやになることがあるだろう。だがそれはみな、主神の試練だ。汝を偉大なるものに成長させるための、愛の鞭だ。希望を失わずに前進していけば、その艱難の中に道の鍛錬があり、進歩がある。そうした苦難の道程は、これからなお50年続くであろう。普通の人間には到底耐えられるものではないが、汝は選ばれたるものとして、輝かしい成果を上げることを期待する。苦しいときは、白頭と崑崙を想起せよ!力を与えるぞ!楽しみとしてはげむがいい』(P268)

神と人間 (五井先生の祈念法 最終章 ): グッドムーン

定まった一時刻(いっとき)の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果があるのである。

愛とは情ではないことを申し添えて置きたい。


情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切れぬ関係がある。


そのため、仏教では、愛さえも業(ごう)と呼んでいて、迷いの本体である、と説いている。


そして神の愛を慈悲と呼んでいる。


私が今まで愛と書いてきたのは、情(執着)ではなくて、英語でいうCharity(チャリティー、大慈悲心)のことである。

この現世では光に影が伴うように、愛には情がつきまとうのである。


切りがたい情を涙を呑んで断ち切ってゆくところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがますのである。

ただ、神だけを : 五井先生の御本から

私の祈りは、自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆこうとする祈りである。
祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。
願いごとは、すべて後まわしにすることである。神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。
小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。
ただ、神だけを想うことである。愛だけを行ずることである。

愛は、時に峻厳を極める場合がある。しかし冷酷とは全然異なるものである。
愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも真に生かすために、峻厳さを示すものであり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益のために、すべてを殺すものである。
愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にしてよく自己の道標としなければならぬ。
愛の峻厳を装った冷酷、愛とも擬う情意(執着)、この二つの心を超えるためにこそ、人は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。
私はそうした人間の深い問題を、根底から知らせる役目を神から受け持たされているものと信じて、毎日、空即実相の祈りを、多くの人びととともに祈りつづけているのである。

神と人間P105

Amazon.co.jp: 神と人間―安心立命への道しるべ: 五井 昌久: 本

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