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長銀からソニー、経産官僚へ IT最前線に立ち続けるコンサル社長【長銀OBのいま(11)】(上)|長銀OBのいま|ダイヤモンド・オンライン

 話は前後するが八尋さんが長銀を退職した1997年3月時点で経営危機を感じるような状況はあったかと質問すると、そういう気配はなかったという。


「平成元年に入社した同期のなかで私は3番目か4番目に辞めた人間で、1番目はいまや有名人の林修さん、2番目は国連に行った方。この2人は入社してすぐ辞めたので、ある程度在籍してから辞めた人間としては、私は最初の1人目か2人目でした。同期会で転職すると伝えたら『なんで長銀辞めるの。馬鹿じゃないか』という反応で、上司に相談したときも『メーカーなんかに行くの?』とすごく下に見られました。私が辞めた数ヵ月後くらいから、急速に状況が悪くなったのだと思います」

林修 - Wikipedia

1989年東京大学法学部を卒業し日本長期信用銀行に入社するも「この会社はもうすぐつぶれる」と感じ半年で依願退職。その後、様々な商売を始めるがことごとく失敗し、予備校講師に転身。

長銀からソニー、経産官僚へ IT最前線に立ち続けるコンサル社長【長銀OBのいま(11)】(下)|長銀OBのいま|ダイヤモンド・オンライン

八尋さんは転職を考え始めていた。ソニーは2000年代に入ってから年齢に関係なく、やればやるほど給与が上がる仕組みに変わり、ライブドア事件が起こる前で「IPOでお金持ちになる」という風潮も強かった。だが40歳を目前に控え、「これではない感」を八尋さんは持ち始めていた。


「年齢に関係なく出世できるのは悪いことではないけれど、結局カネかい、という感じがありました。ちょっと説明のしようがないのですが、自分はもっと社会の役に立つことをしたいと思っていたはずだ。生意気にもそんなことを考え始めていたんです。不思議とそういうときはある大学から先生にならないかと声をかけられたり、ある病院の改革を手伝わないかという話があったりして、なるほど、世の中には社会を良くする仕事ってもっといっぱいあるんだろうなと。その中でネットベンチャーをやることが本当に自分のやりたいことなのかと、IPO計画を立てれば立てるほどそう思いました」


 そんなときに日経新聞の求人欄で見つけたのが、経産省中途採用募集広告だった。

 2009年の政権交代民主党政権が誕生すると、官僚が政策を起案するのではなく政治家が政策を起案しそれを官僚が実行するよう方針が変わり、八尋さんは以前と同じように動くことはできなくなった。ちょうどその頃に「シャープがデジタル分野に力を入れるため人を探している」との話があり、八尋さんは民間へ戻ることに決めた。


 2010年にシャープへ入社し、最初に担当したのは「GALAPAGOS」の立ち上げであった。

 だが、この構想が実を結ぶ前に八尋さんはシャープを退職することになった。シャープは2012年3月期決算の最終損益で3760億円もの赤字を出す経営危機に直面し、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業が10%出資することで合意。そして大規模な人員整理が始まり、八尋さんにも「40人を切れ」との指示が出された。


「めちゃくちゃ優秀な技術者たちを集めましたから、私から見たらそんなに切ってしまったら会社が危ない。しかしそれでも切れという命令だったので『では40人もの人を切らなければいけない責任を負わせてください』と申し出て退職しました」

 日立コンサルティングでのミッションは何かと尋ねると「日本を本社とするコンサルティング会社をつくること」という。


「すべてとはいいませんが、外資コンサルティングファームの多くは海外の経験をそのままもってこようとします。しかし私たちはそれを参考にはしますが、ではマーケットや事業環境の異なる日本で活かすにはどうすればよいかと考えます。日本企業には固有の悩みがあり、日立には実際にやってみて苦しみながら考え出した手法があります。我々はお客様のことも教えていただきながら一緒に日本型のプロジェクトを立ち上げていきませんかとやっている会社で、それを通じて日本を本社とするコンサルティング会社をいまつくっている途中、という感じです」