現在のメディアで流布する音楽の水準は極めて低い。この「低さ」は音楽構造が単純とかではなく、神経が張り巡らされていない雑な音が垂れ流されているという事、モーツァルトで納得のゆく演奏をするのは中々大変というような意味で殆ど初見以下、ブ―スで別録りされた声部を重ねる種の耳なし音響だから
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日
ある規範に添って、その中で何かちんまりとやることが音楽であったり表現であったり、あるいは学究でも同様で、そこで点を稼ぐ風の器の小さいことになり勝ちであるように思う。それって一種の営利であり、保身であり、つまるところ人生の阻喪にほかならないのだが、みな王様は裸を見ないようにしている
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日
日本の高等学術には周知の転倒現象があり、学部入試が一番難しい。大学院は常識程度の問題と面接で入れてしまう。内容水準できちんとしたことを伝えよう作って行こうと思ったら学部入試クリアのレベルで粒をそろえて、その先をしっかり教えるのが堅実だし、もっと徹底するなら中学高校生からやるべきで
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日
メディアの音楽がひどいのはGO/NOを出すプロデューサが音楽家でなく、耳を持たず、そもそも音楽を聴いておらず別の金勘定が先に立っているので、どうしようもないことになる。34でテレビ&商用音楽現場を退く事にしたのはそういうのに堪えないからで、失礼だったら悪いですが酷いものは酷いから
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日
私が闘った「題名のない音楽会」の現場は黛さんが在世だったら絶対にGOと言わない水準が電通だらバラエティのプロダクションだら局内事情だらでまかり通り、僕は黛さんとは政治的にはまる反対だったけれど音楽では大事にしてもらい、彼の音楽的な良心には全面的に共鳴するのでそこで頑張った訳だが。
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日
弾けるピアニストに譜面を渡すときにはある種の不安が少ない。仮に古典派しかしらない子でもラヴェルやメシアン、デュティユや自分の書き下ろしを渡せば、耳がある人なら必ず美点を掴むと信じて任せられるから。ここが ない んですよ いまの日本社会の耳全般が。メディアが払底させたと私は痛感する
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日
欧州は芸術大学、美術学校、音楽院などの絶対数が少なく、生徒も限られた数しか存在しない。またそれを志望する人も社会に限られている。セレクションは厳しいが一等賞で卒業した者には国家演奏家資格が与えられ日本社会で考えれば医師や弁護士のような保護がとくに旧東側にはあったわけで、水準は高い
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日
一台一台の楽器がきちんと鳴るからアンサンブルが充実する。一つ一つのセクションが成立しているから管弦楽が充実する。一人ひとりの教育をおろそかにしないから、身の詰まった人の層が出来る。個人をないがしろにして全体を振りかざすあらゆるものを私が信用しないのは、理の当然の結果に過ぎません。
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月12日