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自分の子供の創造性を殺す親たち、教師たち 世界に通用する本物の人材を育てる教育とは何か | JBpress(日本ビジネスプレス)

 30年ほど前、私がまだ20歳頃の話です。学園祭の委員として「入試」を取り上げたことがありました。ゲストでお呼びした数学の森毅京都大学教授(当時)の開口一番が素晴らしかった。


 「学校いうんはアホをいれて賢うして出す所やのに、いまの日本は賢い子を入れてアホにして出しとる」

 ところでここで言う「アホ」とはいったい何でしょう。あるいは賢いとは?


 大学は賢い子を本当に選抜できているのか。これからの日本で、教育や研究の改革はどのように進めればよいのか?

 幾度も記す事ですが、勉強と研究は「天地ほどに違う」と言うか「オスとメスくらいには完全に別物」の側面があります。


 私自身の職掌を例にお話ししましょう。音楽には演奏という仕事と作曲という仕事、異なる2つがあります。素晴らしい演奏の大家で、作曲させるとさっぱりという人もいるし、卓越した作曲家が練習不足でピアノでコケるといったこともごく当たり前にある。


 小学校からずっとピアノを習って練習している女の子がいるとしましょう。それが高校なり20歳過ぎなりになって、それまで一度も作曲なんて習いもしない、考えたこともないのに


 「新しい曲を作ってごらん」


 と言われたら、とまどいませんか?

 音楽を仕事にしてかれこれ30年、プロの卵を教えるようになって20年ほど経ちますが、演奏は教えられるけれど作曲を教えるのは不可能に近いと思います。


 これは私のみならず、バルトークとかラヴェルとか、多くの先達も述べている通りで、「作曲法」について話すことはできても、ある若者が作曲しようと思う動機を身の内にはらむかどうかは全く別問題で、他人が介在するようなことではありません。


 主体的な動機、内発的な好奇心、どうしてもやらずにはいられない心というのは、人が押しつけるようなものではない。目の前でやってみせ、気持ちを掻き立てるといったことがせいぜいだと思います。


 これと全く同じことが起きていると思うわけです、ほとんどすべての学問分野の創造的研究において。

 大学に招聘されてかれこれ18年、東大生と呼ばれる若者を教えるようになって17年ほど経ちますが、勉強は教えられるけれど研究を教えるのは不可能に近いと思います。


 これは私のみならず、ファインマンとかディラックとか、多くの先達も述べている通りで、線形代数とか電磁気学について話すことはできても、ある青年が創造的な新理論を構築しようと思う動機を身の内にはらむかどうかは全く別問題で、他人が介在するようなことではありません。


 主体的な動機、内発的な好奇心、どうしてもやらずにはいられない心というのは、人が押しつけるようなものではない。目の前でやってみせ、気持ちを掻き立てるといったことがせいぜいだと思います。

 小学校から高等学校まで、お勉強は習っても、そのお勉強の一番厳しい水準よりもさらに厳密に細部を詰めて、独自の研究に取り組むという経験をしている子供は非常に限られていると言うべきでしょう。


 平たく言うなら、例えば東大の入試にはそういうものは出題されていない。で、受験に出ないとなると多くの学生生徒も、父兄も、高校の先生も予備校教師諸氏も、はっきり言って真面目に取り合わない人が過半を占める。

 良問を作りたいと考える出題者は、受験生がその場で手を動かし、頭を使って考え、その過程から思考力や推論の力、結果をまとめて表現する力などを見たいと考えます。


 これに対して、受験産業の大半がやっていることは「試験会場で受験生が頭を使わなくても安全に正解とされるものを書けるようになる訓練」です。


 せっかく出題側が「新傾向」で問題を考えても、それに対して「こういう問題はこう考えればよい」という(えてして間違った)解答例などを作成、模試その他で敷衍拡大、もっとハッキリ言えば受験生たちに伝染させることで、良問の価値を損なている側面すらあるように思います。その結果、また新しい出題を工夫しなければならない。


 で、こういうイタチごっこの構造そのものが、本質的に「創造的な研究」と無縁なもの、いやむしろ、学生からクリエイティビティを奪い去る機能しか果たしていないリスクを指摘しておかねばなりません。

 日本の教育(特に公教育)(の大半)で根本的に欠落していることが疑われるのは「批判の能力」です。これはツイッターその他のネットメディアを見れば一目瞭然でしょう。


 建設的批判は本当に少なく、批難というより罵詈雑言、誹謗中傷だらけであるのは、上は国会のバカバカしいやり取りから下は匿名の落書きまで、目を覆う惨状をいくらでも見出せてしまいます。


 建設的批判とは「ここで主張されている(仮)説は、果たして真であろうか?」と深く静かに自ら問い、自分自身厳しい審級をもってこれを敲き、確認する知的労作にほかなりません。


 日本の小学校では、子供に与えられる教科書は大半が「これが本当ですよ」という内容が記され、それを信じて疑わず、丸暗記や反復履修でマスターすることをもってお勉強とするわけですが、これは決して学術の王道ではありません。


宗教改革や市民革命で現在の社会を作り出してきた欧州では、学齢に達する前の子供向けにも、「以下の内容が正しいか?」を感じ考えさせる問いを発します。ベルリンの小学校は多くがプロテスタントの教会託児所が原形となっており、倫理担当の牧師さんが普通にいて子供と議論します。

 子供と言うのはもともと賢いものです。少なくとも主体的な好奇心を持っており、自主的に遊ぶのが好きな生き物です。「遊びをせんとや 生まれけん」という梁塵秘抄の歌は800年経っても全く古びてはいない。

入試問題を作る側は、そこで全身全霊で「遊んでよ!」と出題しているのに、受験生が脳を使うということを前提にあまり入れない大人(受験産業であれ教師であれ、また一番問題なのは親ですが)は「確実に合格」することを求めて「丸暗記」など頭を使わない側でトレーニングしてしまう。

 あれから30年経って当時の森さんの年齢に近づいた私としては、森さんが逝った後の今日の日本社会で、入試に合格して入ってきた学生たちの反応を現実に見るにつけ、受験勉強そのものが子供に思考停止の癖をつけているように思っています。


 なまじ、それで合格などしてしまうから、「理解せずとも何かやっておけば通るものだ」という、一番悪い癖に味を占めてしまう危険がある。と言うか、そういうの、よく見ます。。


 もともとは生き生きと目を輝かせていたに違いない子供たちが、「あの、前例がないので 判断つかないのですが」的な対応で、災害の渦中にあっても全く動かない役場の担当者のような大人になってしまう。


 そういう話として考えるなら、21世紀の教育や研究を検討し、改革の方向性を占う指針にもなると思うのです。


 東大の中で「覚えてないからできない」を言う学生をよく見るようになりました。これではいけません。その場で考えて前に進むのがジアタマを使うということです。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150924#1443090858
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150620#1434796609
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傑出した人物を作るのに東大、京大は無用 職人の丁稚奉公から叩き上げたデービーやファラデー | JBpress(日本ビジネスプレス)

 実験科学・・・実質的に近代英国が生み出したと言っても過言でない、この偉大な伝統を協力に推し進めたのはファラデーと、彼を見出して助手として雇った師匠のハンフリー・デービー(1778-1829)の「王立研究所」初期メンバー2人が決定的だったと言っても大きく否定はされないでしょう。事実、デービーもファラデーも正味「天才的」な実験家でした。


 実は、社会的に身分の高くない出自であったデービーもファラデーも、高等教育を受けていません。


 特にファラデーはまともな学校教育を受けておらず、鍛冶屋の見習い職人の息子として生まれ、14歳から製本屋に徒弟奉公に出されて、仕事の合間に熱中して読んだ科学の本に魅せられ、自ら実験するようになった、ティーンエイジャーの叩き上げという出自の人でした。


 20歳で7年の丁稚奉公の年季が開けるとき、ファラデーはこの「科学」を仕事にしたいと切望します。


 ファラデーはその頃、公開の演示実験で有名になっていた30代前半の若く二枚目の科学者、デービーの講義に熱心に通い、詳細なノートを取っていました。300ページにも及ぶその聴講録を20歳のファラデーは33歳のデービーに送り、科学で仕事がしたいという手紙を書きました。


 製本屋で丁稚奉公していた20歳の無名の青年から送られてきた熱心な手紙に、時の人で有名人であったデービーはどのように応じたのでしょうか?


 彼は親切かつ丁寧にファラデーに返事を書きました。いまは仕事がないけれど、何かあったら連絡する、と。


 デービー自身が、若くして成功を収めたものの、実は何もないところから叩き上げで進んできた人だったので、こういう真贋は瞬時で見分けることができたのです。


 デービーもまた木彫り職人の息子として生まれ、母親が養子に入った外科医の家で聡明な資質を見抜かれて教会学校に通わせてもらい、小学校低学年の年齢から人前に立って詩の朗読などを始め、後年の「演示実験」パフォーマンスの原型を作ったようです。


 また同じ頃からデービーは馬具屋を経営する好事家ダンキン氏のもとで電気や化学の実験を学びます。このダンキンという人は数学の原理を可視化する装置を工夫するといったことに興味を持っていました。

 デービーは1799年、ベンジャミン・トンプソンが「科学を知らない一般(貴族)市民にサイエンスを普及する」ために設立した「王立研究所」に講演助手として就職、間もなく正規の講演者となります。


 22歳。まさに時宜に一致した天職を得ることができました。こうして「演示実験」そのものを作るという職場が誕生し、多くの俊才がここから巣立って行くことになります。

 彼は水酸化ナトリウム電気分解から、金属ナトリウムを人類で始めて単離しました。同様の方法でデービーが発見した元素としてカリウム、カルシウムなどがあります。


 つまるところ、身の回りに存在する主要な化合物金属元素を、電気分解という新しい方法を徹底することで、彼は軒並み発見することができました。

 高いお金を払って受験産業でノウハウを刷り込まれ、入試だけクリアして来る学生がいますが、創意工夫ができず、何よりお手本や先例がないと、失敗したとき物事を収拾することができない。

 10代の思春期、身も心も人となりを作る時期に、自ら調べ自ら学び、自ら作り出して自ら確かめ発表する喜びを身の内に養い、20歳を過ぎてからは世界最高最先端の人々の第一線の現場に直に触れて、創造のラインに連なって行く・・・。


 この「デービー/ファラデー タイプ」の教育システムこそ、日本がこれから取り組むべき「卓越人材育成」の基礎に据えるべきプロトタイプの1つになるのではないでしょうか。

ヘンリー・キャヴェンディッシュという物理学者・化学者は莫大な資産を持ちながら、生前は限られた数の発表しかせず、没後に遺稿を調べところ、同時代をはるかに凌駕する業績を山のように生みながら、一切発表していなかったことが明らかになりました。自分で納得のいかないものは発表しないのです。

そういうメンタリティが厳密科学の伝統を美しく作り出してきました。

 翻って、いまの日本はどうなっているか?


現代日本の科学教育はどのような状況にあるのか。少年の無心はいまどこにあるのだろう?


 来月私が開催する国大協「大学改革シンポジウム」でこのような議論を考えている、というのは、現実がそのようになっていないという明確な認識があるからにほかなりません。


 10代の思春期、体も心もまだ十分にできていない年配のデービー少年やファラデー君は、ペーパーテストやその例題の丸暗記学習、あるいは偏差値その他の相対評価に追われるような時間の過ごし方をしていたでしょうか?


 否、否、断じて否。


 デービーは16歳までまだ学校に通ったから、一定の勉強はしたかもしれませんが、ファラデーに至っては本屋・製本屋の丁稚小僧ですから、およそ強いられる勉強などせず、練習問題もテストも全く関係がなかった。


 その代わり、彼らには実験があった。書物からもたらされる限られた情報、親身になって一緒に考えてくれる年長者、そして何よりも最大の先生としての「自然」つまり実験に問いかけるというプロセス。


 そこから確かに学び、成果を積み上げていくことで、デービーもファラデーも彼ら自身の道を開拓していきました。


 実はこういう教育を良しと考えた取り組みが日本では幾度も存在します。1つは「ゆとり教育」で、有馬朗人寺脇研らのメンバーが考えたのは、こうした歴史的事例と、ラサール高校、武蔵高校など(彼らの母校ですが)での取り組みを念頭に「放し飼いで大きく育てる」教育を理想としたはずでした・・・。


 が、はっきり言って失敗していると思います。


 理由は「親身になって一緒に考えてくれる年長者」を十分育てなかったからだと私は思います。


 デービー少年には優しい親方としての馬具屋のダンキン氏がいました。またファラデー少年には光り輝くようなアイドルとして13歳年上のお兄さん、ハンフリー・デービーその人がいた。


 これを全国通津浦々の小中高等学校の先生にいきなり求めても無理 というのが、私の思うところです。先に結論を言ってしまうなら、 大学の先生が中学高等学校の生徒を教えればよい。

 その代わりに、 大学生たちはサークル活動やバイトにいそしみます。 想像される理由は、サークルやバイトの方に、 むしろ高校時代以前から、 本当に血沸き肉躍るような本物の経験を積んでいるからではないで しょうか?


 スポーツやゲーム、ブラスバンドや合唱の方がむしろ本気で、 勉強は紙の上の強がりだけで受験を通過して、 本当にその仕事の喜びを体で覚えてこなかった人が、 学部まではすでに答えのある勉強をしろと言われ、 大学院以降になって突然「 前人未踏の新業績を明らかにする研究に従事しろ」というのが、 頭がどうかしている、と言っているのです。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160908#1473331260
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160812#1470999006

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160912#1473676967
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160912#1473676970(奈良なのか京都なのか)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160912#1473676971
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160912#1473676973

#勉強法

基礎付け主義 - Wikipedia

精神現象学 - Wikipedia

本書は、観念論の立場にたって意識から出発し、弁証法によって次々と発展を続けることによって現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を段階的に記述したもの。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160813#1471085085
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