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【第25回】

 宿賃を節約するため、相変わらず日帰りである。特急列車の「つばめ」でさえ東京まで行こうとすれば7時間半ほどかかった時代。夜行だと10時間以上かかる。東京に出るのは、今で言えばアメリカ出張くらいの時間を要したのだ。


 宿屋に泊まるために当時必要とされた米持参でローカル線を乗り継ぎながら、大変な思いをして九州出張に行っていた柾木平吾にも、


「昔から出張員の失敗は酒と女。飲むなら京都で飲め」


 と命じていたくらいで、幸一自身もきわめて禁欲的な出張であった。


 夜行列車は朝6時半に東京駅に着く。半沢商店が店を開ける8時までの間を利用して、銀座に出来たばかりの東京温泉で汗を流し、朝食をとってから半沢商店に乗り込んだ。


 半沢の商品は人気があるから、仕入れるのは大変だ。頭を下げ下げしながら、ずっとできあがってくる商品の横にいて、ほかの店に持っていかれないよう見張っていないといけない。


 夕方6時頃、完成された商品がようやくたまってきたところで、


「ちょっと分けていただけますか」


 とさらにもう一度頭を下げ、ようやく商品を手にすることが出来た。


 ブラパットと違いコルセットはかさばるので持参した鞄だけでは間に合わない。一反風呂敷と呼ばれる大判の風呂敷に包んで逃げるように店を出て、再び夜行列車に飛び乗るのである。


 列車に乗った頃にはもうくたくたになっていた。


「もうちょっと会社が立派になったら、どこかこのへんに1泊できるとこができたらええなあ」


 熱海を通る時、幸一が独り言のように口にしたのを内田は記憶している。

 幸一たちは1週間に1度の割合で、京都と東京を往復した。すると3ヵ月ほどしたところで、あれほど悲惨だった和江商事の収支は黒字に転じる。


 ところがそのうち半沢商店から、


「和江さん、申し訳ないが、おたくのブラパットはもういいよ」


 と告げられるのだ。ラテックス(ゴム原料)製ブラパットが出回りはじめたからだった。

 工夫を凝らしたのは化粧箱だけではない。仕事場もそうだった。


 幸一は改築改造が好きで、畳の部屋では仕事がしにくいと板張りにするのはまだ序の口。仏壇と押し入れだったところが廊下になったり、階段の位置を変えてみたり、屋根裏を改造して社長室にしたりと、しょっちゅう大工が出入りしていた。

 コルセットの売り上げは順調だったが、ここで幸一は女性下着の中でも肝心のブラジャーの品ぞろえがないことに、いまさらながら気がついた。

 ブラパットを持ち込んできた大宝物産の安田社長と相談して、ブラジャー生産のための別会社を昭和25年(1950年)2月に合弁で設立。有限会社美装社と名付けた。


 見本が納入されてきたが、生産に必要な木綿生地が足りない。衣料品はこの当時、統制品だった。


 ここでまたも八幡商業時代の人脈が生きた。


 同級生が京都の浜口染工という会社の社長の甥だったつてを頼り、この会社から反物の端切れを手に入れることができたのである。ブラジャーは端切れでも縫製できる。それに端切れなら統制の対象外だ。


 こうしてできあがったブラジャーは、新商品第1号であることから「101号」と命名された。カップのサイズは同じだが、とりあえず脇布の長さでSMLの3段階にして売り出した。


 ところが早々に壁にぶつかる。


 和江商事のブラジャーをつくっている工場が、型紙を利用して横流しを始めたのだ。その先は、よりによってライバル会社の青星社(旧青山商店)だった。


 せっかく設立した美装社も、安田との意見の違いから設立後半年で解散、再出発を図ることとなった。


 それでも幸一はブラジャーをあきらめなかった。


 後に柾木は20周年の折に発刊された『ワコール うらばなし』の中で、ワコールの成功の鍵についてこう述べている。


「第一に早く組織化に重点をおいた事。第二に社長が一般に市販されてない商品ブラジャーと心中する覚悟でやられた、熱意、決意、今日のワコールを築いた大きな原動力であったと思う」


 “ブラジャーのワコール”に向け、幸一はここから驚異の粘り腰を見せていくのである。

 (横流しなどしない、信頼の置ける専属契約工場がほしい……)


 そう思っていた折も折、出入りしていた京都産業新聞の記者から、縫製を得意とする木原縫工所(旧京都被服)社長の木原光治郎を紹介された。


 木原は塚本より33歳も年上の62歳である。


 かつて高島屋呉服部に勤務し、外商部を経て独立。呉服商を営みながら、戦争中には軍服製造を受注していた。縫製の大量生産のノウハウがあり、信頼できる人物として評判は高い。


 木原の工場は、中京区室町姉小路角にあった。ここの事務室で木原との契約交渉に臨むことになった。


 表から見ると典型的な京町家だ。


 江戸時代に間口の広さで税金をかけられたことから、京都の建物は“うなぎの寝床”と呼ばれるように、表は狭くても奥に広い構造となっている。ここも奥に洋館の事務所があり、さらに中庭を挟んで裏側に地下1階、地上3階のビルが建っていた。


 (なかなかのもんやな)


 最初はそう思ったが、中に通されてみると、そこには3社が入居しており、木原は表の町家作りの屋根裏に近いところにミシンを置いて操業していた。


 思ったほどの規模ではなかったことから、少し気が楽になった。


 木原は和服のよく似合う大柄な人物であった。


「誠実に製造してくれる方を探しております。うちは資金力はありませんが販売には自信があります。貴社で作ってもらった製品はすべて買い取ります」

 最初は威勢のいいことを口にしたが、“資金力”のないのを裏付けるように幸一は驚くべき条件を出した。


「そのかわり木原さんには、うちの注文した製品の材料を仕入れていただくのに50万円の資金をご用意いただく必要があります。当社は貴社の全製品の代金を60日間の手形で支払います」


仕入れはそっちでしてもらい、こっちの払いは60日後になるという、むしのいい話である。

 実はタイミングが絶妙だったのだ。たまたま木原は今後の事業展開に行き詰っており、何か新しいことに取り組まねばと焦っていたところだった。


 そこへ現れた塚本幸一という青年実業家は、自分の失いつつあった若さと強烈な事業意欲を全身にみなぎらせている。彼はこの男に賭けてみようと思った。

「いや、わたしは予想しておりました。必ず戦後は洋装化する。そうなれば、洋装の下着というものは、相当の需要が出てくるにちがいない。それには二十年かかるんじゃないか、というのは、やっぱり一つの革命ですからね、服装の大きな転換というのは」


 彼の目には、今後20年かけて、大きな洋装化の波が来ることが見えていたのである。その確信が、彼に力を与えていた。

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