ノーベル賞によって権威づけられてからでなければ大きく取り上げることがない。独自の視点や価値観が我が国マスコミにないのを照射しているのがノーベル賞でもある。その意味でノーベル賞の影の効用になっているのはノーベル財団は知らないだろね。大隅良典栄誉教授というのもこれまで知られてなかった
— おくあき まさお (@tuigeki) 2016年10月4日
去年の大村教授の場合もそうだった。https://t.co/FTdaz0HRRL
— おくあき まさお (@tuigeki) 2016年10月4日
アフリカで年間三億人もの人を失明の危機から救っていたのに、日本ではほとんど報じられることもなくノーベル賞受賞してから世間に知られるようになった。これでは何のために日本のマスコミはあるのだ?
2年半前にオートファジー記事書かれてたようだが、書いた記者も今回受賞するとは思ってなかったよう。ノーベル賞選考委員会と日本マスコミは別の価値観、視点をもってるようだ。 https://t.co/iMCn1UqNyu
— おくあき まさお (@tuigeki) 2016年10月4日
因みに大隅先生は40すぎまで助手、51まで教養で助教授、やっと教授になった岡崎は研究所で、学生がどんどん入って来るような場所ではなく、はっきりいって凡そ優遇という環境ではなく良い意味でほったらかしにされたまま営々と一人で仕事されてきたように理解している。心からお祝いを申し上げたい
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年10月3日
学問廊下をホイホイと世渡り、中身ないのに何となくちやほやされ、その分空虚は自身も認識(というかコンプレックスを抱えていて)役付きだけ上がっておかしな学内外行政を繰り返し嫌がらせだ妨害だといった政治でぐちゃぐちゃ・・・居ますね。こんなのをよく見る中、大隅さんのソロ本塁打は一服の清涼
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年10月3日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20161003#1475490912
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20161003#1475490913
「最近日本人ノーベル賞受賞者多いから日本の科学も大丈夫」と勘違いする人がいると困るので、受賞年と業績を出した年を書いておく
— シータ (@Perfect_Insider) 2016年10月3日
2001:小柴(物)1987、野依(化)1995
2002:田中(化)1985
2008:南部(物)1960、小林・益川(物)1973、下村(化)1962
ノーベル賞・大隅氏を直撃!「次世代を育てる環境が必要」|『週刊ダイヤモンド』特別レポート|ダイヤモンド・オンライン
――ノーベル賞受賞、おめでとうございます。研究のどんな点が評価されたと感じていますか。
オートファジーは、細胞に備えられた分解機構のメインの一つで、さまざまな生命現象に絡んでいることは間違いないものです。しかし、実際に何が起きているのか理解することは難しかった。そこに私は酵母を用いた研究手法を持ち込むことで、分子レベルでオートファジーを説明できる突破口を開きました。
研究を始めた当初、国際会議を主催して約50人の研究者を集めたのですが、本当の意味でオートファジーの研究に取り組んでいる研究者はごく少数でした。ところが、ある時期からオートファジーに関連する遺伝子を利用した研究が活発になり、ものすごい勢いで増えました。
東京大学の水島昇先生や、大阪大学の吉森保先生などの優れた研究が続いたことで、多数の研究者がこの分野に興味を持つようになったためです。多くの研究の積み重ねの上に今日があると実感していて、その契機となった、オートファジーにかかわるAtgという遺伝子群を特定したことが評価されたのではないかなと考えています。
私はよく学生にこんな話をします。植物細胞の体積の約9割を液胞が占めていることは、中学や高校の教科書の模式図で見たことがありますよね。だけど、学生に「なんで植物はこんなにでっかい液胞を持っているのか、考えたことがあるかい?」と質問すると、ほとんどの人が「実はないんですよ」と答えます。そこに、たくさんの面白い研究テーマのヒントが隠されているのです。
だから私は、「知っている」ということと、「理解している」ということの違いを、学生に強調しています。生命現象を描いた素晴らしい画像があったときに、「それは知っている、見たことがある」ということと、その本質が理解できたということは、まったく違うことなんだと、私はいつも学生に言っているんです。
――基礎研究を軽視する風潮について、どう考えていますか。
次世代の科学者が育ってくれる社会かどうかということを、とても心配しています。日本人のノーベル賞受賞が3年続きましたが、受賞者は研究の第一線から次第に消えていく人たちですからね。私もあと何十年も研究を続けるわけにはいきません。だから、「過去の遺産を食いつぶしているんじゃないか」と私は主張しています。
今後、若手研究者が日本で次々とノーベル賞をもらうような仕事をできる環境にあるかというと、私はとても疑わしいと考えています。なぜなら、5年、10年の長期スタンスで考える研究が非常にやりにくくなっているからです。
常に外部の評価に晒され、評価に追いまくられていると、「やっぱり答えが出る仕事以外はやりようがない」とか「結果が出る研究じゃないと、研究費が取れないかもしれない」となってしまう。
自由な発想で自由に研究して、面白い発見があったらその研究者を一段階引き上げるような研究システムづくりを、私たちの責任で考えないといけないんじゃないかなと痛感しています。
――文部科学省の科学研究費の配分が大型プロジェクト中心になっているという指摘もあります。
研究者のために文科省も一生懸命頑張って科研費を出しているのでしょうが、なにせ、全体のお金が足りません。あと5倍くらいあれば、余裕が出てくるのではないでしょうか。せめて2〜3倍でもあれば状況は変わってきますよ。
今は研究費の絶対額が少なすぎるなかで、競争は激しい。となると、結局、誰が見ても相応しいというか、ある意味で評価が確立した研究者に研究費をあげましょうとなってしまいます。それでは、新たにチャレンジすることがなかなか難しい。そうした環境は改めるべきだと考えています。