現実のものとなった人体改変の衝撃――ポスト・ヒューマンとは何か?|いま世界の哲学者が考えていること|ダイヤモンド・オンライン
コンピュータに乗っ取られた人間の未来は明るい|「21世紀の変人たち」とする「真面目」な話|QREATOR AGENT|cakes(ケイクス)
落合 こうやって人間はコンピュータに制御されていくんですよ。
でも多分、制御された方が、されないよりできることが増えるから楽しい。
――おもしろそうだと思う反面、ちょっとこわい気もします。生き物じゃないものが生き物に見えるとか、自分がコンピュータに制御されてしまうとか……。コンピュータに制御されるというと、どうしても映画『マトリックス』みたいなイメージがわいてきてしまうんですよね。人間は自由を奪われ、エネルギー生成装置として虐げられる、というような。
落合 『マトリックス』シリーズや『ターミネーター』シリーズの影響は、大きすぎますね。映画は物語を盛り上げないといけないので機械を悪役にしてますけど、実際はそんなことないですよ。あれってけっこう昔の価値観だな、と思ってるんです。
例えば2014年公開の『ベイマックス』だと、機械はいいも悪いもなく描かれています。ロボットを使って主人公を襲ってくるのは、けっきょく人間なんです。動機は恨み。人間はそういう非合理的な行動をとるけれど、機械はそんなことしませんよ。
――たしかに。じゃあ、人間がコンピュータに制御されるというのは、悪いことではないんですね。
落合 悪いどころか、いいことだと思いますよ。だって、歌えないより歌えるほうがいいでしょう。絵が描けないより、描けるほうがいい。大抵のことは、できないよりもできるほうがいい。そういうことが、機械の言うなりになれば増えていくはずです。
その世界の中でどうやって明るく、楽しく生きるかということのほうが重要ですよ。
――機械に乗っ取られて何かをするなんて、人間性が失われるんじゃないか、という議論もありそうです。
落合 出た、人間性。人間性って自明のことだとみんな思っていますけど、それってたかが350年くらいの考え方なんですよ。人間には人間性が備わってる、なんて思うからおかしくなるんです。
これね、極論すれば多分ね、ぜんぶデカルトが悪いんですよ。
――ええと、なぜいきなりデカルトの話に……?
落合 世界の中心が人間だ、人間の中心は意識だと考えられるようになったのは近代ではデカルト以降の価値観なんですよ。それ以前は、超越的な「神」が存在して、その下に人間とかその他の生き物がいて、調和の取れた世界を構成していました。
ところが、17世紀に入って、ガリレオ・ガリレイやコペルニクスが地動説を唱えだすなど、聖書の内容に疑問が持たれるようになった。そこでデカルトが、信仰ではなく人間が持つ理性を用いて真理を探求していこう、という姿勢を打ち出したわけです。
彼が「我思う、ゆえに我あり」とか言ったものだから、いまでは「思わない人は我がない」みたいに言われるようになっちゃった。そんなことないですよ。しかも、思考できない実体(いわゆる物質)と、思考できる実体(いわゆる心)に分けて考える、ということも提唱したから、物心二元論が定着しちゃった。そんな風に考えるから自分や人間性を探し始めるんです。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160921#1474454141
#DQN
ただ興味深い論点への言及がある。デカルトに超越神がいないかのような言いぶりだが、実際にはいる。むしろ超越性は最強レベルだ。にもかかわらず落合さんには理がある。彼は超越神を削除したように見える(し当時からそう理解された)。なぜか。ここにキリスト教の核心があるが残念ながら仕様の文字数
— Kuni Sakamoto (@kunisakamoto) 2016年10月4日
#哲学部
父神一神教を肯定し、巨大コンピューターの下に隷属しようとする考え方。
しかし、宇宙科学者は自由を失い、巨大コンピューターは狂ってしまった。