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茶々の母・市は有楽斎の姉にあたり、残された茶々、初、江の三姉妹は姪っ子です。かわいくて仕方なかったでしょうね。市の自害をはじめ、幼い頃からつらい経験を重ねてきましたから、みんな元気で健やかに過ごしてほしいと願っていたと思います。豊臣と徳川の小競り合いがあったにせよ、茶々が豊臣に嫁ぎ、江が徳川に嫁いでいますので、自分が豊臣と徳川の懸け橋となって平和に終わってほしいというのが、一番の願いだったに違いありません。それを心に秘めながら有楽斎を演じています。

茶々や秀頼には、これからも元気で健やかに過ごしてほしいんです。そのためには、幸村をはじめとした牢人たちは、戦のための駒、兵力として必要です。戦上手の父・昌幸を見て育った幸村の力量は、大したものだと思ってます。兵力差を跳ね除け、勝ち戦に持っていく幸村の作戦や力量は本当に素晴らしい。しかし平和のためには、ほどほどにしてほしいんですよ。最初、幸村のことを褒めていますが、その後、「使い方一つ」と言っていますよね。いなくちゃ絶対に困るわけでもなく、邪魔されるのは迷惑。だから手のひらの上で踊らせておこうっていうのが、有楽斎の本音なんですよ。

争いごとをやめて、という心の底があるから、その場その場で話に乗っていったり、こっちに乗ったりと、間をうまいこと泳いでいくわけです。大蔵卿局のように「こうじゃなくちゃいけない」となることなく、はぐらかしつつ、うまい具合に周囲を包んでいく役割なんですよ。


これは、家康が今川家の家臣だった19歳のころに出会った言葉。
桶狭間の合戦で負けた家康は、命からがら、大樹寺というお寺に落ちのびました。
「もはや、これまで…」と自害しようとしますが、住職の登誉上人(とうよしょうにん)に「この戦国乱世を住みよい浄土にするのが、お前の役目だ。生きろ!」と諭され、命を救われます。
そんな、家康の人生観を変えた言葉が「厭離穢土、欣求浄土」でした。


「穢(けが)れたこの世を厭(いと)い、平和な極楽浄土を願う」という意味です。


家康は、争い事が絶えない日々が当たり前の戦国時代に、「戦のない平和な世の中をつくろう!」という大きなビジョン、理念をもった初めての戦国武将かもしれませんね。
その後、世界史上まれにみる、250年もの平和が続く江戸時代をつくりました。

家康は、豊臣秀頼を最後まで助けたがっていたようです。
豊臣家を大和などに国替えすることで、いち大名として生きながらえさせようとしていました。
しかし、それを拒否する豊臣方と激しく対立し、やがて牢人(ろうにん)衆たちが大坂へ集まりだすと、開戦が避けられず、上杉、福島、毛利、島津ら有力大名は皆、徳川方に付き従わざるを得ませんでした。

ドラマの中で、家康が幸村に10万石で寝返りを促すシーンがありましたが、幸村は条件を書いた手紙を見ることもしませんでしたね。歴史上においても、幸村は、家康から「10万石、さらには信濃一国を与えるから味方にならないか」と好待遇の誘いをビシっと断った。といわれています。
“義”を重んじる上杉家の人質になっていたことが、彼の人格形成に影響を与え、「義に厚い武将」となったに違いありません。