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書簡の草稿は、東京・北区にある「渋沢史料館」の学芸員が、渋沢家から寄贈された資料の中から見つけました。この中では大政奉還のあと、「鳥羽伏見の戦い」のさなかに徳川慶喜が大坂から引き上げたことについて、「戦(いくさ)は天下が望んだものなのに、江戸に戻り、朝廷に「恭順」するとは考えが徹底していない」としたうえで、「徳川300年の歴史を自ら棄ててしまう行為で、祖先や人民に何も尽くしたことにならない」と強烈に批判しています。


草稿は、幕末にパリ万博に派遣された徳川慶喜の弟の昭武から慶喜に宛ててパリで書かれたもので、近代の日本経済の礎を築いた渋沢栄一は、20代だった当時、使節団の一員として昭武に仕えていました。


渋沢は後年、昭武名義で慶喜に宛てた書簡の下書きを書いたと回想録で語っていて、渋沢史料館や研究者は筆跡などから今回、発見された草稿は渋沢が書いた下書きだと見ています。


幕末・維新史に詳しい聖徳大学の大庭邦彦教授は、「当時、徳川家の家臣だった渋沢栄一慶喜を批判する資料があったとは驚きだ。渋沢が回想で語っていた実物の資料だと考えられ、大変、貴重な資料だ」と話しています。