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板垣退助 - Wikipedia

東北戦争では、三春藩無血開城させ、二本松藩仙台藩会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。官軍の将でありながら維新後すぐから、賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であった為、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。

下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年(1874年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。明治8年(1875年)に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
明治14年1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。

プロテスタント

中江兆民は「私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としてよりも、むしろ個人としての美しい徳を持っていた近世の偉人である」と評価している。

有馬藤太 「或時西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」

自由民権運動の思想はその基礎を王政復古に求めるものであり、天賦人権論を基盤としたものである。

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