https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


 幸一はこの日誰が講師か知らなかったが、会場に入って初めて、それが出光興産創業者の出光佐三であることを知る。


 出光は当時77歳。すでにその名は高い。立志伝中の人物を一目見ようと会場は立錐の余地もなかった。普通なら帰ろうかと逡巡するところだが、大きな悩みを抱えている幸一は藁にもすがる思いで、押しあいへしあいしながら立って聴くことを選ぶのである。


 やがてトレードマークでもある鼈甲(べっこう)の丸めがねをした出光が壇上に立った。目が悪いこともあって彼の小さい目にはさして力がない。声はよく通るものの、語り口は木訥(ぼくとつ)で田舎のおじいさんといった雰囲気だ。


 ところが講演が始まるやいなや、すぐに引き込まれていった。発想がユニークで実に魅力的なのだ。出光の言葉はまるで砂漠に降った雨のように、ささくれだった幸一の心にすっとしみこんでいった。

アメリカはまだ歴史も浅く、精神文化のできていない国だから、すべてを法律、権利、義務で割り切ってしまう。日本人は長い歴史の中で、和を以て貴しとなすという人間尊重と相互信頼の風土を築きあげてきた。だから日本人は、契約書などなくても互いの信頼に応えようとする。こんなすばらしい文化があるのだから、アメリカ式経営を取り入れてそれを真似する必要などない。出光興産は創業以来、その精神でやってきた。わが社には就業規則も定年制もない。出勤簿もタイムカードもない。残業手当もない。もちろん労働組合もない。わが社の経営の理念は一口でいえば人間尊重を基本にしたものといえる。わが社には7000人の社員がいるが、みな喜々として働いている。これが日本式経営である」