論証集の必要性|東大(伊藤塾)→東大ロー+アガルート→予備試験→司法試験 gochブログ
まず、論証集を用いることのデメリットについて。
①いわゆる論点主義に陥ってしまう。
②何の関係もないところで論証を貼付けてしまう。
③必要の無い部分を書きすぎてしまう。
④本質的な理解が得られない。
これらがあげられるでしょうか。
そして、論証集を用いるメリットについて。
①試験の現場で、素早く論証を吐き出すことができる。
②典型論点を即行で処理して、応用部分に時間をかけることができる。
③論証の暗記は、インプットとアウトプット両方を効率よく行うことができる。
④初学者にとっては、論文の書き方を学ぶツールとしても機能する。
論証を暗記してみると、理解がその後になって伴い、さらに論証の記憶定着が促進されます。
私が初学者のころは、論証の暗記、問題を解く、分からないところをテキストで確認、論証の暗記…をひたすら繰り返していました。
そして、ある程度勉強が進んできたら、自分の理解によって,論証を「加工」する、という作業が中心となってきます。
論文式試験では論証集の暗記が必須 | 資格スクエア | 資格試験対策なら資格スクエア
しかし、論証の暗記をする際には、注意が必要です。そのまま論証集の文言をそのまま暗記すればいいという訳ではありません。
キーフレーズなどを押さえておいて、「問題提起→理由づけ→規範部分」という論証を何も見ないで出来るようにトレーニングしていくのです。
論証集の中に組み込まれている反対説や反対説への批判も一緒に覚えておくことをおすすめします。
つまり、論証集に書かれていることを丸写しするのではなく、内容や大体の流れを覚えてそれを自分の言葉で書けるようにしていきましょう。
答案を読んでいて思うこと。論証パターンを並べただけの答案は丸分かりだし,文章の端々で理解できていないことが分かってしまう。なぜ,その論証を書かないといけないのか。論証の要旨は何かもっと意識した方がよいと思います。
— 西口竜司(弁護士/辰已専任講師) (@ryuji24guchi) 2017年4月28日
司法試験・上位合格者のメソッド(勉強法・基本書等) : 新司法試験に論証パターン集は必要か
私は,辰巳のスタンダード論文答練(会場)を2年間,伊藤塾のペースメーカー答練(在宅)を1年間取って,とにかく問題演習の中で必要最小限の規範・論証は頭に叩き込んでいました。そのようなやり方で,上記答練では常に上位10%以内に入っていたので,方法論としては間違っていなかったと思います。
論文の実力は,とにかく書いた量に比例します。私自身,書けば書くほど実力がついていきましたし,基本書から学んだ知識も定着していきました。周囲を見ても,「まだインプットが終わっていないから」などと,いつまでもまとめノートや論証を作成することに時間をかけ,なかなか論文を書かないタイプの人は,あまり合格していません。
ということで,この時期は新たに論証集を作成・記憶するなどということはせず,短答の勉強で知識の記憶・確認を続けつつ,論文を書くトレーニングを続けることが大事だと思います。
理路整然とした一読了解の分かりやすい文章であること(形式面),答案からその法律,制度を深く理解していることが伝わってくること(内容面)という2点が備わっていれば,基本的知識だけで十分上位10%以内に入れるので,質問者の所属LSから推認するに,そんなに心配は要らないと思うのですがどうでしょうか。
とにかく
・適切な見出しをつけ,
・(1)問題提起,(2)規範定立(趣旨・理由→結論→考慮要素),(3)あてはめ(事実摘示→評価),(4)結論という区切りごとにナンバリングをし,
・法的三段論法を徹頭徹尾貫き,
・論理飛躍がないことを心がけ,
・できる限り綺麗な字で,
・出題者が設定したストーリー(出題趣旨)を頭に浮かべつつ
・伝聞法則などの基本原則を「正確に深く理解しているな」という印象が伝わるように,法の原理原則,条文趣旨から丁寧に掘り起こし,
・事実を可能なかぎり拾って,それを自分の言葉で意味づけ(積極・消極,程度の大小),
・読み手の気持ちを考えながら,1つの作品を作り上げるような気持ちで答案を書く
ことを心がけることです。
[民訴法]「基本事項についての理解の定着とそれを具体的な事案や問題に応じて論理的に展開していく思考力を涵養することこそが,法学教育に求められるものであることを引き続き強調したい。」(平成28年採点実感)
— 司法試験・論文を書くコツbot (@shiken99) 2017年4月28日
【勉強が面白くなったら、その年に受かる】#勉強 pic.twitter.com/QApnYvojqi
— 成川豊彦 (@narikawatoyo) 2017年4月28日
事件解決のコツがわかってくると、弁護士の仕事はより面白くなる。司法試験論文答案の起案も同じ。コツがわかってくると、起案がより面白くなる。早く起案が「面白い」と思ってもらえるよう、基礎講座をやっております。
— 原孝至(弁護士・辰已専任講師) (@TakashiHara1) 2017年4月18日
第2に,違憲審査基準を次から次へと量産するのはやめてもらいたい。この種の議論は,誰にでも何とでもいえる性質のものだから,量産されて当然であるが,受験生にはひどく迷惑である。学者のムラ内部で何を議論しようと,学問の自由の範囲内だという意味で自由であるが,受験生向けには,この場合はこういう基準と決め打ちしてもらわないと,限がない。よく物の本に出ている芦部基準図でも,最近流行の三段階審査でも何でもよい。かつて中国の科挙では,各地の方言によるばらつきをなくすため,「官韻」といって, この字の音はこうと決めた上で詩賦を草する試験を課したという。これに倣って,とにかく「お受験」の世界ではこれ一本というのを示してもらわないと,審査基準そのものを覚えるなどというまったく無意味な作業をしなければならなくなる。
第3に,司法試験の憲法論文式問題を解くには「憲法訴訟的センス」が必要なのだそうであるから,そうで あるならば,そのセンスをどう発揮すればよいのか,ひとつ実技を披露してもらわねば困る。つまりは,審査 基準を定立してそれを設問の事案に当てはめた答案を示してもらいたいのである。「採点実感」などと銘打って,後講釈で難癖を並べられても,受験生にとっては,参考にならないばかりか,むしろ疑心暗鬼に陥って精神衛生上よくない。ここはとにかく,出題者・採点者に出来上がった形の答案を書いていただくしかあるまい。ただ,「採点実感」を読む限り,この人たち(関心がまるでないので,具体的にどういう人かはまったく知らない)に実際に答案を書く能力があるのか,聊か心許ないものを感ずる。答案を書くのは,外国の判例を翻訳したり泰西先哲の言行を論じたりすることよりも,はるかに能力を要することであるから,自分たちで書けない―あるいは,書きたくない―のであれば,実際の受験生の答案を,許諾を得て公開すればよかろう。その際,最優秀答案だけを示されても,ほとんどの受験生にとっては益がないので,合格・不合格すれすれの水準のものを知りたい。くどくど同じことを繰り返して申し訳ないが,もちろんこれは,他の科目についてもいえることである。
CiNii 論文 - 憲法訴訟論とは何だったか,これから何であり得るか (特集 憲法最高裁判例を読み直す)
或は、ロースクールなどという愚にもつかぬ組織を作る以前であれば、少なくとも、ロースクールの経費を払わないで済んだ分、暇な時間があった学生諸子が、自らの興味の赴くままに、文献を渉猟し、地頭で訓練=思惟を積み重ねることができたのではないか。
筆者は、大学3年のときに、「それ」に気づいた。
法律学の学問としての面白さは、末川博士の『権利侵害論』(昭和19年初版)の冒頭(1頁以下)でも言及がある。
いわく、(以下、筆者が適宜現代語化した。)
「権利という概念がいかに規定されるべきか、また違法ということがいかに理解されるべきか。これはおよそ法律について関心を有し法律について考えるすべての者に課せられているいわば宿命的の問題である。そしてそれは法律自体に内在する問題であって、法律の存する限り随時随所に提起されて止まぬ問題である。だから、何人もが一応は解決し得てしかも何人もが永遠に解決し得ざる問題なのである。この至近にして且つ至難な問題は法律の全体系を蔽いてなおあらゆる場面にわたりいかなる末梢にも及んで生起する。それをどの部門でとらえてどういう方向で考察するか、人各々その選ぶところを異にするであろう。そこに法律について研究する者の専門化された立場がある。そしてその立場には広狭精粗いろいろの段階があり得るのだから、問題の一応の解決といいまた解決不能というに当ってもさまざまの段階が考えられる。」
つまるところ、何度も何度も同じところを行ったりきたりしているうちに、自然と螺旋階段を上って展望台にいるのが法律学なのである。
また、団藤重光先生は、『実践の法理と法理の実践』50頁以下で、
「芭蕉は、『笈の小文』や『幻住庵記』に書いているように、『ついに無能無芸にしてただこの一筋につながる』とか、『ついに無能無才にしてこの一筋につながる』というのを、生涯の信条としていた。芭蕉の偉大な芸術は、この信条から生まれた。芭蕉は無能無才どころか、若いころから才気煥発で知られ、また、和漢にまたがる深い学殖は人の及ぶところではなかったのであるが、そのすべてを俳諧の道ひと筋に没入したのである。『無能無芸』、『無能無才』とは、かれの謙遜ではなく、かれの真情であった。『多能は君子の恥づる所なり』という兼好法師のことばに、かれは共鳴した。芭蕉が許六の画業と風雅(俳諧)について、それが一筋につながるところを褒めているのは、大変面白いとおもうのである。」
と、述べておられる。
何十年来通いなれた道でもほんの少し入った路地に足を踏み入れた事がない場所だらけではないだろうか?数理で考えるなら、いつもパターンで計算している本の少しを変えるだけでぜんぜん違う風景が見えることがある。音符などもっと如実で、そうでなければピアノのために新しい譜面など書く事は出来ない
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年4月29日
作曲の手仕事で僕が一番避けたいのは必然性のない恣意で楽曲を毀損する事態です。はっきりいって音符なんて幾らでも書けます鉛筆と紙さえあれば。で、耳のないどうしようもない音を書き連ねるのはいくらでもある話。そういう陳腐に陥らず、ある必然を持った佇まいを探すのは俳句を練るのに似た仕事かも
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年4月29日
パタンに堕すのは一種の自己憐憫、あらゆる因襲から逃れつつ世界の新鮮な切り口をどのように劈開させることができるか? という問いとして音楽を作ることを、世界の観想として教わりましたが・・・こういうのは、いまはもう ないんですよね殆ど。もう終わってしまった芸術の形かもしれない。
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年4月29日
ずっと生まれ育った土地に住んでいても、知ることなどわずかである。そもそも人は自分自身についても知ることは少ない。 https://t.co/JXWdqqLSnp
— Kan Kimura (on DL) (@kankimura) 2017年4月29日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170428#1493375698
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