https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

七夕〜|團遥香オフィシャルブログ

筋肉をつける前は二の腕が美しかった。

[3-1-5]樺太の美観|第三巻「愛と美といのち」|出口王仁三郎著作集 - 霊界物語ネット

 さらに地形の上に眼を転ずるなれば、大小の山背のあらわす曲線の美にいたつては、とうてい筆舌をもつてつくしえられぬものがある。いつたい神さまのつくられたものは曲線から、人間のつくつたものは直線からなつている。たとえば、自然界にある山川、樹木、人体なぞはことごとく、曲線をもつてなつているにたいして、人間のつくつた家居や物入れ、火鉢などいう物はほとんど、直線を主としてできあがつている。
 すべての画家は好みて人体、なかんずく婦人の裸を描く。これは神のつくられたもののうちにて、人体はもつとも美なるものとしてあるからで、婦人の曲線は自然美の極致である。樺太の山は裸体夫人を見るごとき曲線の美がある。大きい山の曲線があるかと思えば、小さな山の曲線があつて、どこまでもつづき、また大きな山の緩い曲線がつらなり、じつにその妙をつくしている。

第七章 真神の霊力体 - tetugaku ページ!

神は剛、柔、流を素材として万有を作ったが、人もまたいろいろな物を創造する。だが神の作品と人の作品とは、作り方に基本的な相違がある。人の作品は直線が主体だが、神の作品はすべて曲線だ。山の稜線、川のうねり、生物の形、その動き、風に散る花片、みな曲線だ。王仁三郎は「神の作品の中で、もっとも繊細、緻密、霊妙を究めたものは人間であり、とりわけ脳髄と肉体の曲線美はその代表だ。脳髄の曲線美は男の方が勝り、肉体の曲線美は女の方が勝る」という。さらに神の作品から、曲線美のベストスリーを選んでいる。一、女の肉体 二、男の肉体、三 馬とりわけ女性の曲線の美しさよ。だから画家は好んで若い裸婦を画材に選ぶ。色といい、艶といい、完成された女性の曲線は自然美の極致だ。一つの女体の中に山あり丘あり、谷ありでゆるやかなうねり具合は絶妙を尽くし、時には草むらの辺から曲線を描いて噴水を放出し、そのあたりには極楽も地獄も潜む深い落し穴まで用意してある。

王仁三郎は、「芸術と宗教は車の両輪」だといった。芸術は形、色、香、音、味などの人の五感を媒介として美の世界を創造し、その中で遊ばせてくれる。宗教はかならずしも感覚に頼ろうとはしない。むしろ五感を超えた人間の霊性の内にある神智、霊覚などの神秘的な洞察力、第六感によって、目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、心いまだ思わぬ神の生命にふれさせようとする。芸術は形ある美の門から、宗教は形なき真と愛の門から共に人の霊魂のもっとも切実に要求するものを充たしつつ、神のあたたかい懐にいざなってくれる人生の大導師である。だが同じ導師であっても、宗教と芸術とでは導く境地に深浅がある。芸術の対象は美そのものだ。美は神の姿であっても、神の心ではない。その衣であっても、体ではない。だから芸術によって神の姿にふれ、にじみ出る愛に酔うことはできても、神の心を知り、神の霊と交わり、神と共にある妙境に達することは至難の業だ。わずかに神の裳裾(もすそ)にさわることはできても、その暖かい胸に抱かれ、その動悸に触れることはかなわぬ。芸術の極致は、美を創造し観賞することによって現実界の束縛を抜け出し、うっとりと我を忘れることにある。ただしそれは現実の活動世界ではなく、心象世界にとどまり、その感動は一時的であって、永続はしない。宗教の極致は自然美に陶然と酔いしれることではない。その憧憬の対象は形体美ではなく、精神美の実現である。神のうちにある愛と信とをわが身に活現し、永遠無窮に神とともに生きるべき霊的活動の向上発展こそが、宗教本来の目的である。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170617#1497696716