自然科学の真理を宗教に持ち込むな、持ち込んだら、宗教が宗教でなくなる。一方、宗教の真理を自然科学に持ち込むな、でないと自然科学がファンタスティックなものになる、と公言されるようになります。でも人間はそんな態度を取らされるとなると、精神分裂を引き起こします。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
自然科学が犯している大きな間違いは、学者が、今学説を立てている瞬間瞬間の自分自身を忘れてしまうことです。自分を忘れるということは、ときには素晴らしいことです。しかし、認識論に関わる問題では、それは度し難い間違いになります。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月17日
狂ってしまった世界では、狂った反応をする人のほうが、いわゆるただしい反応をする人より多くなりますよ。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月17日
これは(日本で)近い将来に十分ありうることですが、経済が少し傾けば、そうすればいわば全国民的な神経虚脱症を引き起こしてしまうのではないでしょうか。個々の人間が、近代工業社会の過度の要求にまいってしまうと思うのです。 『エンデの文明砂漠』(管理者注:1991年に出版されたもの)
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月17日
私が腹立たしく思うのは、これまで自然に対してめちゃくちゃに破壊してきたから、将来は破壊の手段をもっと巧妙にしようというふうに議論が進むことです。つまり、原罪の工業組織、社会のあり方をそのままにしておいて、少し悪賢く自然を搾取しようという態度です。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月17日
環境問題を解決するには、私たちが自然を、どこまでも経済的・実用的観点で考えている限りは、解けないでしょう。たとえば、アマゾンの熱帯原生林を破壊するなと言っても、それが単に地球の気候を守るためだけの意識だったら絶対駄目です。 『三つの鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月17日
従来の方法を捨てる必要があるのです。ジョルダーノ・ブルーノからニュートン、ベーコンと進んできた学問は、実験を繰り返せば何でも作り上げることができる、と考えて、二十世紀についには人間の社会をもそのように作りうるという考えにまで至りました。このカーヴが今こそ終わったと思います。『鏡』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月18日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170717#1500288280
#ポストモダン#反基礎づけ主義