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 財務省も官邸も、これまで大きな変化を経験してきた。日本の官僚組織において、財務省(大蔵省)が最初から優越していたわけではない。戦前・戦時中の日本においては、まず軍部が存在した。また内務省が極めて強大な権限を有していた。


 大蔵省が強い権限を持つようになったのは、戦後、軍部と内務省が解体され、経済が最優先の国家目的になったことによる。ただし、終戦直後には、通商産業省外国為替を通じて経済活動をコントロールし、また日本銀行が銀行に対する窓口規制で強い権限を有していた。しかし1960年代以降、直接的な統制が撤廃され、銀行を通じる間接的なコントロールが中心になるようになって、大蔵省の権力基盤が整備された。


 銀行を通じるコントロールの仕組みは、戦時中に確立されたものだ。もともとの目的は総力戦遂行のための経済統制だったが、それが戦後の日本に生き残って高度成長に寄与したのである。


 他方、政治においては、55年の保守合同以来、自由民主党がすべての社会階層を広くカバーする「万年政権党」として確立された。


 自民党は、派閥の集合体であった。その中核は、当初、官僚出身者を中心とする集団であった。特に、大蔵省の出身者からなる宏池会が、自他ともに認める保守本流であった。


 当選年次によって議員の序列が決められ、党組織の役職を徐々に登っていくという構造は、官庁の組織を政党に移植したようなものだ。


 製造業を中心とする成長が続く中で、成長から取り残される分野は、農業と中小零細企業だ。放置すれば所得格差が拡大し、社会不安が起きる。これを調整する役割を果たしたのが自民党だ。族議員が利害集団を代表する。そして、政調会と総務会を通じて政策が形成された。


 このように、大蔵省が銀行を通じて高度成長を牽引し、それによって生じる社会的な不均衡を自民党が予算や税制を通じて調整した。両者は、同じ役割を果たしていたわけではなく、異なる役割を果たしていた。その政策方向は逆向きであり、したがって、表面的には対立があった。「農業や中小企業、あるいは後進地域に対する財政上の補助や税制上の措置を自民党が求め、それを大蔵省が抑制する」というのが典型的な対立パタンである。


 しかし、全体としてみれば、この2つの方向は補完関係にあったと考えることができる。その意味で言えば、大蔵省と自民党は共存共栄の関係にあったと言っても差し支えない。


 ただし、どちらが強かったかといえば、60年代までは、明確に大蔵省だった。これは私の個人的観察だが、自民党の政治家が陳情のために、頻繁に大蔵省の局長室を訪れていた。その後、いつの頃からか、大蔵省(財務省)の幹部が、議員会館や国会に出かけて、大蔵省(財務省)の政策を自民党実力者に説明するようになった。70年代から80年代にかけて、このような力関係の変化が徐々に進んだと思う。

 1990年代に金融機関が破綻した。80年代後半のバブルの中で放漫融資を繰り広げた結果、不良債権が積みあがったためだ。


 これは、日本の権力構造に大きな変化をもたらした。自民党主流である宏池会は凋落した。大蔵省は金融業に対する監督業務を剥奪され、財務省に名称変更を余儀なくされた。


 これは歴史の必然であった。なぜなら、それまで日本経済の中核にあった金融機関は、高度成長の終了とともに、存在意義を失っていたからである。金融自由化によって企業が容易に資金を調達できるようになり、一方で資金の使い道がなくなっていた。本来であれば金融機関はビジネスモデルを大転換すべきだったのだが、安易に収益が稼げる不動産融資にのめり込んだのだ。この意味で、金融危機は、高度成長を支えた基本的な経済構造が自滅する過程だったと言えるだろう。しかし、自民党も大蔵省も、このような大きな経済構造の変化を認識することができなかった。


 大蔵省にとって致命的だったのは、権威の喪失だ。「大蔵省のエリート官僚が金融機関の接待で遊び呆けていた」というイメージが広がった。先に述べた組織の永続性要求など、どこかに吹き飛んでいたのだ。大蔵省はこのスティグマを、ついに拭い去ることが出来なかった。


 これに先立つ時代においては、選挙の洗礼を受けていないにもかかわらず、重要な決定を大蔵省に任せてよいという信頼があったと思う。しかしそうした信頼は、音を立てて崩壊した。


 経済成長率が低下し、組織の膨張が終わったので、天下り先の確保も難しくなった。事務次官経験者が政府関係機関のトップに就職するという慣行は維持できなくなった。いまや天下り先は、企業の社外取締役になったといわれる。こうした状況を見て、財務省に入省してくる人材の質も変わったかもしれない。


 政治の側でも変化が生じた。中選挙区制から小選挙区制への改正が行われ、族議員と派閥の役割が減少した。これによって首相の権限が強化された。自民党の内部構造が変化したのだ。こうして、小泉純一郎内閣の頃から、「官邸」という言葉が使われるようになった。


 政治におけるこうした変化も、ある意味では、歴史の必然だ。経済成長が止まって社会が安定し、それぞれの階層の「縄張り」が確定した。だから、族議員の力を借りてより多くの公的援助を獲得するという必然性は低下したのだ。

 財務省は変化する条件に対応しているだろうか?


 日本の財政が直面する最大の問題は、高齢化社会で財政の健全化を維持できるかどうかだ。財務省はこれに対する基本戦略として、「社会保障と税の一体改革」を打ち出した。そして民主党野田内閣の説得に成功し、消費税の増税を行なう路線を確立した。ただし、ここには問題がある。


 第1に、消費税を10%に引き上げるだけでは、将来の財政を健全化できない。しかも、消費税の増税は再延期された。財務省対官邸という図式で捉えれば、財務省の完敗だ。


 こうして、財政健全化は後退している。とくに安倍内閣の異次元緩和以降、日銀による財政ファイナンスと解釈しうる状態が続いており、潜在的な危機は拡大している。


 ただし、現在は、異常な金融緩和下で金利が低下しているので、表面的に見る限り、財政は破綻していない。しかし、いったん情勢が変われば、日本の財政は直ちに窮地に陥る。日本の財政は薄氷の上を歩いている。だが、このことは、ほとんど理解されていない。


 では、どのようにしてこの重要性を国民に認識させうるか? これまでのところ、伝統的メディアの論説委員を体制側に引き込む財務省の地道な取り組みが成功しており、マスメディアの論調は、財政健全化を支持している。しかし国民に対して直接に理解を求めるためのチャネルを財務省は持っていない(財務省広報誌『ファイナンス』の何たるおそまつさ!)。


 他方で、財務省にとっての重大な関心事である人事の独立性は、維持できているようだ。これは、入省年次別の序列が厳密に守られ、省内エリート層の暗黙の空気によってリーダーが選ばれるという仕組みが継続しているため、省内に人事抗争が起こりにくいためだ。


 ただし、官邸は、人事権を行使して行政に対する支配力を強めているように見える。とりわけ、安倍内閣における菅官房長官が官庁の人事に大きな影響を持っていると言われる。もっとも、これが安倍内閣の特殊事情なのか、一般的な傾向なのかは、わからない。

 高度成長期の自民党は、経済の後進部門を補助し、そこに政治的基盤を見出していた。しかし、この構造は時代遅れになっている。


 人々の政治に対する係わりが、利害集団による利益の獲得といった高度成長期のものから、大きく変わってきているのだ。一般的な捉えどころのない世間の空気が投票行動に影響する。これは、従来型のメディアが捉えているものより、ずっと流動的だ。雰囲気やムードによって投票結果が決まるのだ。


 こうした変化に対応して現れたのが、「ワンフレーズ・ポリティックス」+「伝統的メディアのコントロール」+「審議会等の活用」である。これらが、官邸政治の基本的な道具立てだ。


「ワンフレーズ」は、小泉内閣の場合には「改革」、民主党内閣では「政権交代」や「コンクリートから人へ」、安倍内閣では「アベノミクス」だ。


 審議会方式はそれまで官庁が多用してきた方法であるが、小泉内閣がこれを大々的に取り入れ、経済財政諮問会議などを活用した。安倍内閣もそれを踏襲しているが、あまりに沢山の会議が乱立し、機能を喪失しているように見える。


 メディアのコントロールは官邸の重要な手段だ。しかし、メディアの構造も大きく変化している。伝統的メディアの影響力が低下して、インターネットの影響力が増大しており、SNSへの主婦の書き込みに敏感に反応せざるを得ないような状況になっている。「ネトウヨ」と呼ばれる人々も無視しえない。


 アベノミクスは円安を通じて株価を引き上げたが、賃金は上がらず、格差が拡大した。現在の日本で取り残されているのは、非正規労働者、パートタイマー、零細企業等だ。


 ところが、現在の官邸は、これらの人々を一顧だにしていない。そして、「トリクルダウン(豊かなものが豊かになればそのおこぼれで貧しい人も豊かになるという現象)がそのうち起こる」という説明で誤魔化している。


 人々の不満は既にかなりのレベルに達しているはずだ。それにもかかわらず、選挙では与党が圧勝してしまう。これは、安倍官邸が世論のコントロールに成功しているためではないだろう。1つには、野党の無能さであり、いま1つには、伝統的メディアの能力低下によるものだろう。


 しかし、このことを逆に言えば、インターネットの世界でのプロパガンダ能力に長けた新しい政治勢力が登場すれば、あっさりとそれが権力を奪ってしまう危険があるということだ。この状況に政治が対応できるか? 有効な答えはまだ見出されたとは言えない。

 官邸と財務省は、対立関係にあると考えられている。官邸が財政支出や減税等を望み、財務省が抵抗するという図式である。マスメディアは対立図式を好むので、政策の解説には、この類の図式が頻繁に用いられる。しかし、これは本当のところ、何の対立なのか?


 対立軸で分かりやすいのは、階級だ。資本家対労働者、大企業対零細企業等々。あるいは抽象的に言って、自由主義対計画主義、国内主義対国際協調主義等々。


 しかし、官邸と財務省の対立は、これらのどの図式によっても捉えられない。一見したところ、安倍内閣は資本家と大企業の側に立っているように見えるが、では、財務省が労働者、零細企業の側にいるかと言えば、そんなことはない。安倍内閣が計画主義で財務省自由主義と言えなくもないが、どちらも、そうした立場を整合的に貫いているわけではない。


「官庁は変化に抵抗する存在であって、日本のガンだから、それを政治主導で変える」とのアピールは分かりやすい。では、財務省対官邸の対立は、頑迷な財務省を変えようとする戦いなのか?


 小泉内閣が「改革」と叫んだのは、このような図式を想定してのことだ。しかし、これは選挙のスローガンとして用いただけで、本当に改革したわけではなかった。小泉内閣の業績とされる郵政民営化財政投融資制度の改革は、小泉内閣が成立する以前に、既に財務省主導で行なわれていたことである。


 私は、官邸対財務省の対立が、どんな図式によっても理解できないことに、いら立ちを覚える。しかし、考え直せば、つぎのように言うこともできる。


 権力は分立しなければならない。三権分立は、その要請に対する古典的な解答だ。だが、日本において古典的三権分立がうまく機能しているようには見えない。そうであれば、対立軸がどうであれ、財務省と官邸が対立するのは良いことだ。


 どちらも自分の思う通りにはならない。だから、駆け引きがあり、妥協があり、取引がある。これは、日本独特の権力構造である。


「対立の内容がどうであってもよいから、とにかく対立することに意味がある」というこの主張は、乱暴だと考える人が多いと思う。しかし、私は権力の集中こそが最大の悪だと思っている。それを防ぐための古典的三権分立を、私は否定するつもりはない。しかし、とりわけ、経済問題のように時々刻々と変化する状況を正確に分析し機敏に対応しなければならない分野においては、三権分立だけでよしとするのでなく、現代的な修正を加えることが必要だ。


 権力の形態は国により時代によって様々だが、現在の日本は、権力分立という最低限の要請を、日本独自のやりかたで満たしている。いま危惧されるのは、官邸の人事権拡大によって、権力の一極集中が起こりかねないことだ。

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170814#1502708177(山口真由)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170402#1491130450(東大文1・法学部から官僚や弁護士を目指すエリートコースに異変が起きています。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170718#1500374283(理想主義と現実主義 正統主義と事実主義)


 筆者は、新日銀の人から、旧日銀OBは新日銀の政策を理解できずに、トンチンカンな批判ばかりをして困るという話を聞いたこともある。役に立たない御託ばかりを唱えていたら、天下りの受け入れ先からもそのうちに「用なしだ」と言われかねず、金融政策の先を読めてパイプもある新日銀OBと入れ替えられてしまうのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170823#1503484452
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