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小松さんが生まれたのは1967年1月の札幌市。電力会社で働く父と専業主婦の母のもと、3人兄弟の長兄として育った。家庭や親戚には研究畑に携わる人はおらず、アカデミックな情報に触れる場も特にない。あったのは、近所の山地にある原生林とそこに生息している生き物たちだった。

「小学校の頃は理科も含めて勉強に興味がありませんでした。当時の教科は考えさせるというより暗記させるものという感じでしたから。自分が生き物に興味を持ったのも、なんだかよくわからないものがいるぞと。それを自分なりに調べて理解していくプロセスが面白かったんですよ。最初に答えを教えられて、覚えるだけというのはどうもやる気が起きませんでした」


その意識が変わったのは中学で科学部に入ってからだ。物理学や化学に熱中する先輩には親が学者の人もいて、たまに来る高校生のOBは好きな研究に打ち込めるという大学の面白さを教えてくれた。自分がこれまで1人で勝手に楽しんでいたことは、どうやらアカデミックな世界とつながっているらしい。交流を通じて自分の関心事を客観視できるようになり、進むべき道も少しずつ見えるようになっていった。


自分は生き物を研究して生きていこう。そのためには大学に行く必要があり、大学に行くには高校を出ないといけない。ならば学校の勉強も必要だ。


目標が定まったあとは持ち前の分析力と解決力を注ぎ込むのみ。中学入学時は平均以下だった成績は期末テストのたびに右肩上がりし、3年生の後半には学年でトップ10に入るほどになっていた。

「なぜかは自分でもわからないんですが、生き物の専門家として生きていくとしか考えたことがなくて、企業に就職する発想を持ったことがありませんでした」

しかし、小松さんは修士課程の時点ですでに“疑って”いた。大学業界の内側からしか見えない現実をいろいろと知っていたためだ。


「さまざまな大学において、内部の人事や能力の評価で、一般的にもアンフェアだと判断されるであろう出来事が少なからずあるようでして。実験の環境は整っているし、すばらしい先生はたくさんいるんですけど、一部の疑問を感じる人が人事権を握ってしまうと、首をひねらざるをえない事態が起きるわけで。インターネットが発達した現在はかなりマシになっていますけど、当時は内側の情報はとことん隠せましたから。まぁそれで、この状態なら自分に合わないな、と」

2004年4月、言語交流研究所との雇用契約を非常勤の技術アドバイザーに変更し、事実上のフリーランスとなった。そして、自宅兼事務所に小松研究事務所を設立。ネーミングは、弁護士や司法書士などの士業事務所を参考にした。


士業と同じようにプロの研究者が拠点を構えて、さまざまなクライアントに相対して報酬を得る。そういうスタイルを体現したものだ。肩書はネットの新聞記事で見掛けた独立系研究者を採用した。

不安をまったく感じないわけではなかった。しかし、「大学の内部で必ずしもフェアじゃない人事を知ったときのほうが断然大きかった」という。道理の通らない状況に身を置くより、不確かながらも世の中の摂理に即した環境にいるほうが心安らぐ。よくわからないものを自らの力でわかるようにして遊んでいた、子どもの頃からの性分、そして自信が根底にあると感じた。

現在、独立系研究者となって14年目に突入している。


その間に忙しさや収入の波もあったが、おおむね順調だと振り返る。複数のクライアントとの仕事を並行してこなしているので、1つや2つが途切れたり問題が生じたりしても致命傷にはならない。穴ができても、これまで培った人脈や会合の場でのつながりが新たな仕事を呼び込んでくるので、積極的に営業をかけることもない。

舗装があったりなかったりした道をとにかく一直線に進んで、小松さんはなるべくして独立系研究者になった。そして、そのスタイルを変えず、定年も設けず、死ぬまで続けることを目標にしている。これから予想だにしないことも起きるだろうが、きっとこの一本道は直線のままだろうと思う。

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