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一昨日、私・原田武夫にとっては”命の恩人”というべき方から久方ぶりに連絡があった。いつものことながら一片のメールに過ぎない。だが、そこにはこうはっきりと書かれていた。


「レギュレーションが変わった。これからは我が国に滞在することになる。ゆっくりと後進を育てて行きたいと思う」


想っていたよりも早かったが、しかし不思議と動揺しない私がいた。そして想ったのだ。―――「いよいよ”その時”が到来するのだな」と。

「これから世界は早ければ2018年、遅くとも2020年までに激変する。その中でニッポンが世界の中心になる可能性が高いが、しかしそうなることに失敗すればニッポンは木端微塵になってしまう」


この言葉を聞いて以来、私は”このこと”だけを探求し、分析し、さらには「どうすれば良いのか」について提言し、行動することだけの人生を送ってきた。我が研究所(原田武夫国際戦略情報研究所)はそのためだけに創った研究所なのである。

我が国というのは実に不思議な国であるとつくづく思う。「本当のこと」あるいは「本音」をいうとすぐさまバッシングを受けるからだ。

これまで余り公然と語ることはなかったことが一つある。それは私がなぜ外務省を自らの意思で去ったのか、その「本当の理由」である。無論、これまで表向きいろいろと云々してきた。中には「政治に出たかったのだろう」などとうそぶくジャーナリスト諸兄もいた。かつての同僚たちからは「結局、何がやりたかったの」と未だによく言われる。


だが、端的に言うならば私は物理的・生物的な意味で「生き残りたかった」のだ。超過労働時間が毎月200時間を裕に越え、時には「240時間」もの残業を強いられる日々が続く中で、私は私自身に対してこう決然と叫んだのである:


「君、死にたまふことなかれ」


こう決意した背景には私の父の「夭折」があった。

私の父は、結果としてグローバリズムの浸透が故に激減した売上減の全責任を負わされることになった。

私が現在、弊研究所を(お蔭様で皆様からの御支援に支えられる形で)10年余りも続けて来ることが出来たのは、その瞬間に強く想ったあることが、時折フラッシュ・バックするからなのである。それはこういうことだ:


●あれほど順風満帆であった我が国経済は何故に強烈な「バブル崩壊」に見舞われたのか


●「バブル崩壊」であるにもかかわらず、どうして我が国のリーダーシップは先見の明をもってその後のシステム構築のリーダーシップをとることが出来なかったのか


●一時は「世界の金融ハブになる」とまで豪語していた我が国、そして東京はどうしてその後、完全に凋落したのか。金融資本主義(financial capitalism)は何故に我が国から発生しなかったのか


●1980年代には米国勢からあれほどまでにバッシングすら受けた我が国のコンピュータ開発は何故にその後完全なる劣勢に置かれることになり、ついには「デジタル経済(digital economy)」からは出遅れてしまったのか


●「先頭を走っていたのにもかかわらず、いきなり最後尾に突き落とされる」ことによって、我が国の国民はどうして、時に”命を落とす”ほどまでの苦渋を舐めることを強いられたのか


●以上が歴史の上で所与であるとしても、それではどうすれば私たち日本勢は政治的・経済的に、そして生物的に「生き残る」ことが出来るのか。「決定打」は何なのか