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 アイザック・ニュートンは天才だった。ニュートン力学を確立し、微積分法の発展にも寄与した彼は、ごく自然な流れで、自分の分析能力を駆使して株で金儲けもできると考えた。何しろ同時代の誰よりも詳しく運動の法則を知っているのだ。それだけの知識をもつ彼の前では、一般の株式ブローカーであろうが投機熱に浮かされた鍛冶屋であろうがかなうはずがない。しかも1720年という年は、まだ歴史が浅かったイギリスの株式市場が空前の活況を見せており、ひと儲けするには最適なタイミングだった。株価の変動は目をむくほどに激しく、その動向──株式の運動──を予測できれば一攫千金も夢ではなかった。


 特にニュートンの目を引いたのは南海会社(サウスシー・カンパニー)という会社だ。1711年に設立され、スペインの南アメリカ植民地における貿易を一手に押さえていた。「新世界」との貿易で見込める莫大な富ほど、18世紀の投資家を熱く沸き立たせるものはない。1720年1月の時点で100ポンドだった南海会社の株価は、熱狂に押されて7月には1000ポンド間際まで上昇し、12月にはふたたび100ポンド付近に下落した。うまく波に乗って暴落直前に売り抜けた投資家だけが、この「南海泡沫(バブル)」でひと財産を築いた。だが、大きく財をなした勝者の陰には、大きく財を失った敗者が同じ数だけ存在していた。


 残念ながら、ニュートンは後者だった。中流家庭の年間所得が200ポンドという時代に、彼は1万ポンドを失った。日記には、「人間の狂乱」を把握できなかったと記している──まるで、ニュートンが予測したとおりの行動をしない人間たちのせいで、彼が損失をかぶったとでもいうように。だが実際には、非難を受けるべきは誰でもないニュートン自身だった。能力に対する過信が失敗を招いたのだ。


 ニュートンが発見した万有引力と運動の法則が当てはまるのは、惑星その他の天体など、目的を達しようとする「意志」をもたない無生物のみ。NASAが火星に探査機を送るときも、検討すべき複雑な要素や変動要因は多々あれど、少なくとも1点に関しては確信していられる。探査機の接近に気づいた火星が逃げ出すことはありえない、と。だが、株式市場を含め、人間のゲームにおいてはそうした事態が生じるのだ。そしてそれは、ニュートンの時代だけではない。現代でも、同様だ。

 1973年、フィッシャー・ブラック、マイロン・ショールズ、そしてロバート・マートンという3人の経済学者が、オプション価格設定に関する理論を発展させる2本の学術論文を世に出した。当時はほとんど取引されていなかった複雑な金融契約を説明したものだったが、この論文で金融の世界は変容し、1997年にはショールズとマートンノーベル経済学賞を受賞するに至る。


 彼らの研究の真骨頂として生まれたのが、ブラックーショールズ方程式だ。同方程式に沿って計算すれば、オプション価格が適正値から乖離するときを発見できる。ここから「リスク裁定」を行う新たな一派が誕生。彼らはそろってブラックーショールズ方程式をベースにオプション取引を行って稼いでいた。少なくとも一時期は、これでぼろ儲けが可能だった。


 だがその後、1998年にすべてが崩壊する。ヘッジファンドロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)」が破綻し、金融市場が危機的状況に陥ったのだ。もちろんおわかりのとおり、この市場にはちょっとした問題があった。高度な知識を備え、資金も充分に潤った投資家の全員が全員、ブラックーショールズ方程式を根拠に大穴を狙っていたのだ。しかも大半の投資家が、市場を動かせるほどの極端なレバレッジをかけた。1998年中盤に、そうした賭けの1つが失敗したとたん、全員が債権者への返済のため売りに出ざるを得なくなり、市場から買い手が消えた。これがいわゆる「流動性危機」を生み出し、LTCMを壊滅に追いやったばかりか、市場全体が崩壊寸前となったのである。


 皮肉なことにブラックーショールズ方程式は、有名になって広く採用されたからこそ正確さと妥当性を失い、それゆえに危険な知識となり果てたのである。ノーベル経済学賞を受賞したマートン・ミラーが、こう疑問を呈している。


「問題は(……)LTCMの悲劇がこれ特有の、他とは切り離された事象であり、人知のおよばぬ壺から引いてしまったハズレくじだったのか[つまりは不運であったのか]、それとも、この惨状はブラック−ショールズ方程式そのものと、それが与えた『市場参加者の全員が同時にすべてのリスクをヘッジできる』という幻想がもたらした避けがたき結果だったのか、という点だ」


 投資家たちにゲーム認識力があれば、この結果は違ったはずではないか。彼らの投資判断が引き起こす戦略的連鎖関係を理解していれば、危機を避けられたのではないだろうか。

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