最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。
先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。
約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首という一族の中に百枝という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。
松ノ馬場は、日吉馬場、権現馬場、御殿馬場と並ぶ坂本四大大通りである。これらは延暦寺焼き討ち後、天海僧正の坂本復興の際、整備された。
関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。天海は家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる。
「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものである。天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えたとされる。 なお、富士山は実際には「北」(真北)から112度ずれているが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたという。江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる。
また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされる。陰陽道の知識により、地形の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされる。
天海は、江戸城の内部を渦郭式という「の」の字型の構造にすることや、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることなどを助言したとされる。「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したものとされるが、他に、敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされる。
天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされる。天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味するが、天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺の側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう狙ったとされる。
上記の他、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされる。
また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、日枝神社(日吉大社から分祀)を移すなどして、鎮護を意図したとされる。
神田神社の神田祭、浅草神社の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭とされるが、それらの祭りは、天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていたとされる。江戸城の位置は、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点にあったとされ、天海が鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していたことがうかがわれるとされる。
天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる。将門の首塚は奥州道に通じる大手門、将門の胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門、将門の手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門、将門の足を祀る津久土八幡神社は中山道に通じる牛込門、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる。天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされる。
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20180430/1525085229(螺旋状につくられた江戸の都市計画)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20170619/1497869390(幸田露伴『ねじくり博士』)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/09/18/200018(千日回峰行 (比叡山) - Wikipedia)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20180903/1535971095(GreatTraverse田中陽希)
その信仰の原点は、多数立ち並ぶ社殿の背後にある八王子山(牛尾山)にあります。
参道入り口となる赤鳥居をくぐって、ずっと先に見える、こんもりとした山が八王子山です。
最澄は、遣唐使として唐に渡り、天台宗の本山である天台山国清寺で修行をします。
その天台山には、「山王元弼真君」という神様がいて、天台山の守り神として祀られていたのです。修行を終えた最澄は、日本に帰ってきて比叡山にお寺を開くのですが、元々比叡山には日吉大神がいらっしゃいます。
最澄は天台宗を守ってもらうために、日本の山王さん、つまり天台宗の守護神になってくださいとお願いしました。それ以来、日吉大神は台宗の守り神として祀られるようになり、比叡山の僧侶が神様を「山王さん」と呼び始めたことから一般にもそう呼ばれるようになったわけです。
現在東本宮に祀られている大山咋神もそんな山の神様だったと思われ、最初は八王子山の頂上付近にある高さ約10mもある岩、金大巌に宿ったとされています。
八王子山は標高381メートル、片道1キロ、約30分ほどで登れるとのこと。
そんなに大したことないだろうと思っていたのですが、階段の目の前に来ると、結構急こう配!
4月に行われる山王祭では、氏子衆が山をかけ登り、三宮宮と牛尾宮にある神輿を担いで降りて行くのだそうです!
金大巌から裏に回ることができるのですが、そこからさらに上に登ることができます。
「此の神は近淡海国の日枝山に坐まします。また葛野かづのの松尾に坐す、鳴鏑を用ゐる神ぞ」
松尾大社は、渡来系一族「秦氏」の氏神を祀る神社なのですが、その神様も山の神で、大山咋神でした。
日吉大社と松尾大社は、山の上に巨大な磐座で祀るなど、祀られ方も共通点があるので、おそらく秦氏などの渡来系一族が崇めていたと考えられます。
天智天皇は、都を飛鳥から大津へ遷都させたのですが、その際に崇敬していた大己貴神を三輪山から勧請(連れてくること)しました。
大津京は数年して再び奈良に遷りますが、その後京都に平安京ができ、続いて伝教大師 最澄が比叡山延暦寺を創立すると、日吉大社は延暦寺の守り神となります。
その時、あとから勧請した大己貴神を日吉大社の筆頭にし、地主神の大山咋神をナンバー2に定めたのです。
そのため、西本宮が「大比叡の神」、東本宮が「小比叡の神」と呼ばれています。