https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

征韓論 - Wikipedia

日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。)。

西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。

明治6年1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎江藤新平らもこれに賛成した。中国から帰国した副島種臣は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。二人の議論の末三条実美の説得もあり副島が折れることとなった。板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。

いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団岩倉具視木戸孝允大久保利通らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)した。

明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動が起こった。

明治六年政変 - Wikipedia

そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣した。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館を利用して、征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる)。これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。

この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣桐野利秋大隈重信大木喬任らであり、反対したのが大久保利通岩倉具視木戸孝允伊藤博文黒田清隆らである。岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷らが急激な改革を起こし、混乱していたことは大久保らの態度を硬化させた。大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日、一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まったが、翌日この案を上奏された明治天皇は「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下した。

10月14日 - 15日に開かれた閣議には、太政大臣三条実美、右大臣・岩倉具視、以下参議の西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣大久保利通大隈重信大木喬任が出席。この際、大隈・大木が反対派に回り、採決は同数になる。しかし、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。これに対し大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、岩倉も辞意を伝える。

後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった三条が17日に過度のストレスから倒れ、意識不明に陥る。20日には岩倉が太政官職制に基づき太政大臣代理に就任した。22日、西郷・板垣・副島・江藤が岩倉私邸を訪れ派遣決定の上奏を要求するが、岩倉は「三条太政大臣による派遣決定は上奏するが、太政大臣代理である私の意見も上奏する」と主張した。そして23日、岩倉は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は岩倉の意見を採用し、西郷派遣は無期延期の幻となった。

そして西郷は当日、板垣、後藤、江藤、副島は翌24日に辞表を提出。25日に受理され、賛成派の参議5人は下野した。また、桐野利秋ら西郷に近く征韓論を支持する官僚・軍人が辞職した。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷を咎めず、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。

この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。この政変が士族反乱自由民権運動の発端ともなった。

もっとも、この政変によって征韓論争が終わった訳ではない。なぜなら、朝鮮との国交問題そのものは未解決であること、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。

ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。1874年9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。

しかし、日本側が一旦帰国した森山からの報告を受けた後に、大阪会議や佐賀の乱への対応で朝鮮問題が後回しにされて「九月協定」への了承を先延ばしにしているうちに、朝鮮では大院君側が巻き返しを図り再び攘夷論が巻き起こったのである。このため、翌1875年2月から始められた細部を詰めるための2次交渉は全く噛み合わない物になってしまった。しかも交渉は双方の首都から離れた倭館のある釜山で開かれ、相手側政府の状況は勿論、担当者が自国政府の状況も十分把握できない状況下で交渉が行われたために相互ともに相手側が「九月協定」の合意内容を破ったと非難を始めて、6月には決裂した。

一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあった。このため、8月27日に森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。

またこれにより、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。これの危険な点は、例えば天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定を可能にするところにある。そして、西南戦争直後に形成された侍補を中心とする宮中保守派の台頭がその懸念を現実のものとした。その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ。

明治政府はこの政変で西郷らを退けたが、翌年の明治7年(1874年)には宮古島島民遭難事件を発端とした初の海外出兵となる台湾出兵を行った。(特に木戸孝允征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵を行うのは矛盾であるとして反対した結果、参議を辞任して下野した。)また、翌々年の明治8年(1875年)には李氏朝鮮に対して軍艦を派遣し、武力衝突となった江華島事件の末、日朝修好条規を締結することになる。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/19/200552本郷和人 東京大学史料編纂所教授、先﨑彰容 日本大学危機管理学部教授)