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https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/11/17/200552

髙木先生が僕に向かってそう言われたのは、たしか1980年代後半、当時の日本新聞学会から放送に関心のある研究者らが集団で離脱し、放送学会のようなものをつくろうとする動きがあったときのことだったと思う。

日本新聞学会(以下、新聞学会)は、ジャーナリズム研究やマス・コミュニケーション現象の社会科学的な解明に取り組むために、清水幾太郎日高六郎、南博といった、戦後の代表的進歩的知識人が創設メンバーとして関わり、1951年に設立された。

当時、新聞というのは実体としての新聞のことだけではなく、マスメディア全般を指す概念だとされていた。

20世紀初頭までは、大量生産・大量消費されるマスメディアは印刷メディアしかなかったため、新聞という一つのメディアがマスメディア全般の意味を代替できた。その時代の産物が新聞学であり、新聞学会という名称だった。

学者というのは自分の専門に閉じこもってなかなか外へは出たがらない。それどころかどんどん専門領域を細分化していく傾向がある。小さな領域を確保して自分の縄張りとし、気心が知れた仲間と小さなお城をつくろうとする。

世の学会には会員数が300人や400人の小振りのものがあちこちにあるが、そんなものをボコボコつくってどうするつもりなのか。

とくにメディアやコミュニケーションのようなアクチュアルな対象を相手にし、大衆社会全体を視野に入れた議論をするべき領域でそういうことをやったらダメだ。

髙木先生によれば、たわけというのは、先祖伝来の水田を子孫に相続していく際に2つに分け、3つに分けというかたちで細分化してしまい、結果として収穫量が減って子孫全体が衰退してしまうことだという。

それぞれは自分だけの小さな土地を手に入れて喜びはするが、長い目でみれば結局は一族としてダメになってしまう。そこで田を分けることは愚かなこと、馬鹿なことを意味するようになった。

先生はたしか、織田信長がそういう意味でたわけという言葉を使った、とおっしゃった気がする。

しかし、いろいろ調べてみると、たわけは「戯け」を語源としているらしく、先生のたわけ解釈は俗説らしい。

ただ、言わんとすることはわかる。メディアやコミュニケーションの研究は本来的に学際的なものであると同時に、全体性をもった領域であるべきなのだ。

ただ、たわけには2つの意味というか、2つの段階があるように思うのだ。

1つは細分化である。英語で言えばsubdivideしていくこと。

髙木先生はどう思われたか知らないが、80年代後半に新聞学会から分かれて放送学会をつくろうとした研究者たちには彼らなりのもくろみがあったはずだ。

いい方を換えれば新聞学会に対する不満があり、そこから抜け出て自分たちらしい領域を開拓したいというビジョンがあったはずで、そのこと自体を否定することは乱暴すぎるだろう。

つまり細分化は、ある種の必然性をはらんでいるのではないだろうか。

しかし細分化が進んでしばらく時間が経過すると、すなわち分けられた田んぼのありようが定着してしまうと、人々は細分化当初のビジョンを忘れてしまう。こじんまりした領域があたりまえになるのである。

この段階はもはや細分化ではなく、断片化と言えるのではないか。英語で言えばfragmentationである。

1990年代に入ると新聞学会は名称変更で揉めることになった。

最終的には日本マス・コミュニケーション学会に落ち着くのだが、その過程では、新聞・放送学会、新聞・放送・広告学会、あるいは新聞・放送・広告・コミュニケーション学会など、分けられた田んぼの名前を列挙するという、今考えればコミカルに思える案も出された。

2018年度現在、日本マス・コミュニケーション学会の研究部会は7つへと増加している。理論研究部会、ジャーナリズム研究・教育部会、放送研究部会、メディア史研究部会、メディア倫理法制研究部会、メディア文化研究部会、ネットワーク社会研究部会がそれである。

現在の学会員の大半は80年代後半の事情を知らない。つまり、放送学という新たな領域の存在表明をしようというビジョンと、新聞学と括られる領域がもつ全体性、総合性を大切にするべきだというビジョンとがぶつかり合い、結果として研究部会というかたちで相対的に固有の領域を認めることで手打ちをしたという政治的な判断があったことは、さっぱり忘れられている。

そうした忘却の中で現在進行しているのは、細分化というより断片化だといえるのではないか。

細分化が一般的概念であるのに対して、断片化は、じつはコンピュータ用語に起源をもつ。

細分化は、なんらかの主体がものごとを細かく分けていくことを指し、その意味には「分ける」という行為の主体性が含み込まれている。

一方、断片化はおよそ次のような問題を指す。ハードディスクなどのメモリに保存されているファイルは、何度も書き替えたり、移動したりするうちに、もともと記録されていた場所に収まりきらなくなって、複数の場所に分割されて書き込まれるようなことが生じる。複数箇所にアクセスするには時間がかかり、結果としてコンピュータの処理能力が落ちてしまうという問題だ。

断片化は、ある全体的なものごとを動かすうちに、図らずも欠片(かけら)になっていく現象を指す。それはそんなつもりもないのにそうなってしまう、つまり行為の主体性は含み込まれていないのだ。

数年来、学問の危機、大学の危機が叫ばれている。

多くの学者は、学問の自由、基礎研究の重要性、文系学問の必要性を唱える。僕はその手の議論に出遭うたびに複雑な気持ちになる。

なぜなら大半の学者が、いつ誰がどういう経緯でこしらえたかも知らない田んぼにずっといることを心の底ではよしとしていて、本当はそこから一歩も出たくないのを、僕は知っているからだ。

断片化した者たちは主体性をもたないから束になることができず、結局は政治家や資本家にいいようにやられてしまう。そのことを思うと腹が立つ。

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https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/11/12/200450(これが日本の“1キログラム” 基準の重りを公開)