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この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学藤田達生教授などが調査を行いました。

その結果、書状は、花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。

藤田教授によりますと、書状の中で、遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時、江戸城にいた大御所の徳川秀忠や、三代将軍、家光の居城になるという前提で遠州大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。

徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。

この構想について、藤田教授は「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。

そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。

跡部さんによりますと、徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、西暦1615年、豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した薩摩藩島津家久の話が、史料に記されています。この史料には、家久が幕府の上層部から、大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されています。

跡部さんによりますと、その後、秀忠は、朝廷と幕府の関係を強化する公武合体政権」を目指して娘を天皇家に入れ、寛永3年=西暦1626年に孫が生まれていました。

今回の書状はこの直後に書かれたとみられ、誕生の祝儀にはどれくらいのものを贈ればいいのかや、来年、秀忠が上洛するうわさがあるといった、孫の誕生に関連する記述もあります。

また、跡部さんによりますと、江戸時代前期の大坂城の平面図には、小堀遠州が建築を進めていた茶室を示す「数寄屋」が存在していますが、後期の平面図には見られないということで、将軍が居城する可能性がなくなって壊したのではないかと考えられるとしています。

「大坂幕府構想」について、跡部さんは「当時は天皇がいる都やその近くに武家政権の本拠地を置く『畿内政権』というのが基本的なあり方でした。幕末の外交官の記録に、大坂城江戸城よりもずっと美しくずっと堅固である』という記録がありますが、ここを本拠地にするという思いで作っていたと考えると納得できます」と指摘しています。

しかし、秀忠の孫は2年後の寛永5年に亡くなり、秀忠自身も寛永9年に死去したことから、「公武合体政権」や「大坂幕府構想」が実現することはありませんでした。