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中今(ナカイマ)とは - コトバンク

〝中今〟を生きる

神道では、本居宣長(もとおりのりなが)(江戸時代の国学者・文献学者・医師:1730-1801)が言っているように、『古事記伝(こじきでん)』の中でそのことを述べているわけでありますけれども、過去、現在、未来と、そういう時代の流れがあって、我々は、「今の時代を生かされている。そしてその生かされている時代を一生懸命に全力を尽くして生きていく」これが神道の根本的な考え方なんですね。ですから勿論過去のことも、未来のことも、思いますけれども、しかしそれよりも「今のこの瞬間を精一杯生きていく」ということが、神道の真髄だと思いますね。

我々基本的には、やはり今この世に生まれていること自体が、ある意味で奇蹟だと思うし、そして生かされていることも奇蹟なんですね。しかしその奇蹟の継続の中には、我々の祖先たちの営みというものがあって、それを我々は引き継いで、今ここに生かされている、ということを考えてみると、先ほど冒頭に言ったように、やはりいのちを頂いて―これは自分一人のいのちではないし、尚且つ自分一人で生きているのではない―そういった長い長いいのちの繋がりというものを考えながら、一生懸命に生きていかなければいけない、そういうことだと思うんですね。

人の強さというものも勿論感じましたし、しかし「自然」というものを、日本人がどう捉えてきたか、という究極の問題も、私はその時に咄嗟に感じたんですね。それはさっきの満天の星もそうだし、あるいは豊かな恵み、豊かな海になるということもそうなんでしょうけど、「自然」という言葉は、もともと自然(じねん)と言っていましたから、自ずとそうなる。人間がいくら力を尽くそうが何をしようが、自然は自ずとそうなっていくんだから、その流れに委せるより仕方がない。だから折り合いを付けて、自然と共に生きていく。それが我々のこれからの生き方に、さらに大きな希望を与えてくれるんだという、そういう意味合いのことをおっしゃったことが非常に印象的でしたね。

確かに「中今の精神」というのは、「一生懸命」と相通ずるものがあるわけですね。しかし一生懸命にしても、自分が報われるとは限らない。逆に言えば、逆の方向で見られる可能性だってある。でもやはり自分がやらなければならないことというのは、これはやはり神々から我々に与えられた大きな役割というものがあると思うんですね。そのことを先ず一生懸命にそれに取り組んでいく。「一生懸命」というのは、今は「一生懸命」と書きますけど、ほんとは一所に懸命「一所懸命」。ということは、やはり昔の日本人というのは、土地―自分が住んでいる土地というものを、命を懸けて守るという。ですからその土地から離れることはない。これが「一所懸命」の本来の意味だと思うんですね。

神道講話375号「今を生きる」 | 白山比竎神社 | 石川県

昨今は試験の合格が目的のようになってしまっているように思います。

つまり、最初に志す目標を決めるのが大切なのであります。

人は一生の目標に向かって一つ一つのハードルを乗り越える。その一つ一つのハードルが一所懸命につながるのだと思います。

江戸中期の書物「葉隠」の有名な一節に「武士道とは死ぬ事と見つけたり。」という言葉があります。それは「死ぬ」まで頑張れということではなく、「死を想え」そして「今を生きろ」たった一度しかない人生を後悔するのではなく、失敗や負けることを恐れず、苦難や挫折を受け入れるという前向きな発想のことであります。

「むくわれない努力はあっても無駄な努力はひとつもない」と先人はおっしゃいましたが、年度替わりの3月・4月、新たな目標・目的をもって清々しい春を迎えましょう。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180102#1514889358

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